めめちゃんの恩返し

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『帰ったらちゃんとするから』  テーブルの上には、殴り書きのメモ。  LINEでもメールでもなく手書きの。  破り取られた紙片が、急いでいたことを物語っている。  それでも端正で温かみのある彼女らしい文字に鼻白んだ。  なにをちゃんとする、というのだろう。  部屋はいつも通りちゃんとしている。冷蔵庫の中や、バスルームのボトル類、来客用のスリッパまでちゃんとして不埒な俺の行為を見守っている。  なにごとにも一生懸命な理恵は、部屋を整えることにも一切妥協しなかった。  ナチュラルテイストに統一された彼女の部屋は、柔らかな色彩しかないのに、ときどき息が詰まりそうになる。 「彼女さん、キレイ好きなのね」 「ああ、ものすごく」  理恵は今夜は帰らない。  夜勤だから。  明朝10時まで仕事があって、残業やなんやかんやで帰宅はいつも正午を回る。 「ねえ」  理恵に比べて柚香は奔放だ。  生活上のルールにも、人間関係のモラルにも拘泥しない。  寝たい所で寝て、食べたいものを食べ、したい相手とする。  雑多で色にあふれた生活圏で、享楽的に生きるマーメイドのような女だ。  そこに惹かれて会うようになった。 「ねえってば」  柚香は俺の頭を抱き締めて、催促した。  視界一杯の甘い匂い。  俺は理恵がちゃんと片付けてクロスを敷いたテーブルに柚香を押し倒して、スカートの中へ手を差し入れた。 「やだ、ここでするの?」  柚香は面白がって笑った。 「いや?」  俺は柚香のシャツをまくり上げ、谷間に鼻先を潜らせた。 「いいよ」  申しわけ程度の薄い布を剥ぎ取り、求められるままにキスをした。  互いの肌が熱をおび、湿った音が響きはじめる。  リズムに合わせて、テーブルはギシギシと頼りない音をたてた。  やがて柚香は声を上げ、すがるようにクロスを握りしめた。  ゴトン、ビシャ!  二人同時に動きを止めた。   身体を起こして床を見ると、テーブルの端に置いてあった金魚鉢が転がっていた。  さいわいにも割れてはいない。  理恵が古道具屋で見つけて買い込んできた、縁が青いフリルのようになっているガラスの金魚鉢。  底に薄桃色のパールのようなガラス砂利を敷いて、水草を植え、黒い出目金のめめちゃんを育てている。 「わわ、やばっ」 「ごめん、つい」  砂利を鉢に戻し、床に広がった水をバスタオルに吸わせながら、俺たちはめめちゃんを探した。  めめちゃんは反動で投げ出され、テーブルから離れたリビングの入り口で動かなくなっていた。   「……めめちゃん」  俺は途方もない罪悪感に打ちのめされた。  理恵が知ったら泣くだろう。  めめちゃんをとても大事にしていたから。  水質に気を使い、店で一番高い餌を買ってきて与えていた。  どんな話でも黙って聞いてくれるの。  水温を調整しながら、理恵は真顔で言っていた。  そんな大事なめめちゃんが死んでしまった。いや、死なせてしまったのだ。 「あたし帰るね」 「送ろうか」 「いい、まだ電車あるし」  柚香は髪と化粧を直し、部屋を出て行った。  俺は引き止める言葉もなく、それを見送った。  それから証拠を隠滅すべく、めめちゃんの亡骸を拾い上げた。  お尻をぷりぷりさせながら、水草の間を泳いでいた陽気なめめちゃんの眼は白く濁り、弛緩したヒレが頼りなく揺れている。 「ごめんな」  俺は呟いてめめちゃんをトイレに流した。  それから床をきれいに拭き上げ、財布とキーを持って部屋を出た。  行先は近所のペットショップだ。  理恵が、めめちゃんにも友達が必要だと目星をつけていた黒い出目金がいるのだ。  めめちゃん身代わり作戦だ。  俺は理恵が帰宅するまでに、部屋のすべてをちゃんとした。 「ただいま」  理恵は疲れた表情で帰ってきた。 「おかえり、仕事どうだった?」 「患者さんが一人急変したの。とりとめたけど」  そう言って俺の首に腕を回す。  甘えた仕草が可愛くて、俺はその腰に手をまわした。  かすかに消毒薬の匂いがする。 「お疲れさま」  顔を覗き込んで、キスしようとした瞬間、理恵が唐突に体を離した。 「なにか変わったことあった?」  落ち着かなげに部屋を見回し、くんくんと鼻をならしている。  女の勘て、怖え。 「なにもないよ」 「これは?」 「ああ、床にペットボトル落としちゃって。すぐ拭いたけど]  理恵はバスルームとベッド、トイレまでチェックしている。  俺は動揺を悟られないようにわざとぞんざいにソファに腰を下ろし、めめちゃん(偽)を見ていた。  めめちゃん(偽)は元気に水草の間を泳ぎまわっている。  黒の濃さといい、目の出具合といい、めめちゃんとそっくりな偽物が見つかって、本当によかった。 「本当に変わったこと、なかったのよね?」 「ないって」  俺は立ち上がって理恵に近づいた。  避けるように一歩さがる理恵。  顔がすでに怒っている。 「誰かきた?」 「来ないよ、誰も」  証拠隠滅には絶対の自信があった。  床もソファもトイレも念の為、コロコロクリーナーを掛けたし、そもそも柚香は玄関とリビングにしか立ち入っていないのだ。  俺は手持無沙汰にジーンズの尻ポケットに手を突っ込んだ。  なにか入ってる。  理恵のメモだった。   『帰ったらちゃんとするから』  彼女らしい文字だ。  これ、なんのことだったの?  と聞こうとして、とどまった。  理恵がめめちゃん(偽)を凝視している。 「じゃあどうして」 「?」 「じゃあどうして、死んだはずのめめちゃんが泳いでるの?」  昨日、出勤前にめめちゃんに餌をあげようとして、理恵はめめちゃんが腹を見せて浮かんでいるのに気が付いたのだそうだ。  エラは静止し、ヒレは水流に揺れているだけで自発的な動作ではなかった。  死んだめめちゃんをそのままにしておくのはしのびなかったが、埋葬している時間はなく、仕方なくメモを残して出勤したのだ。    帰ったらめめちゃんの事はちゃんとする。  理恵のメモはそういう意味だった。 「理恵……」 「出て行って」 「待てよ、聞けって」 「やましいことがないなら、嘘なんかつかないでしょ」 「それは……」 「鍵、置いて行って」  理恵はテーブルからクロスを剥がし、丸めてゴミ箱につっこんだ。  それから腕まくりしてアルコールスプレーをシュパシュパ振り撒きながら、部屋中を消毒しはじめた。  とりつく島もない。  理恵はひたむきで一途な性分だ。  無尽蔵に愛を注いでくれるが、裏切りにも容赦ない。  俺はうなだれてキーホルダーから鍵を外し、むきだしのテーブルに置いた。  理恵はそれを素早くつかんで金魚鉢に投げ入れた。  ガラスの金魚鉢の中をキラキラと輝きながら舞い沈んでゆく。  黒い出目金がぷくぷくと楽しそうに泡を吐いてそれを眺めていた。  俺は肩を丸め、彼女の部屋を後にした。  背後で鍵が閉まる音がして、俺は彼女の人生から永遠に締め出されたのを知った。  これからちゃんとした彼女の部屋で暮らすあの出目金がうらやましかった。    
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