夏の終わる日

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 夕焼けの空をカラスたちが鳴き交わしながら渡ってゆく。  さっきまで子供たちが順番を争っていたブランコもすべり台も、今は静かに風に吹かれている。  金木犀の甘い香りに混じって水の匂いがするのは、水路が近いからだ。  あたしはジャングルジムのてっぺんで足をブラブラさせながら、遠くを走る電車の音に耳をすませた。  今頃、お父さんは電車に乗っているのかな。  そんなことを考えながら、何気なく公園の入口に目をやると、男の人が立っていた。  ぐるりと公園の中を見渡して、あたしと目が合うとふっと目尻を下げて微笑んだ。 「なにをしているの?」   男の人は砂場の前のベンチに荷物を置いて、花壇をまたいで奥の植え込みに入って行った。  大きなケヤキの木の根元に転がっていた大きな丸い石に、持ってきたペットボトルの水を注ぎ、その後で濡れた石の上に丸いビスケットを二枚。  いつの間にあらわれたのか、白い猫が男の人の横にきちんと前足を揃えて座っている。 「お墓なんだ、猫の」 「ふうん」   まだ幼さの残る遊び盛りの綺麗な猫だ。  立ち上がった男の人の足の間を、ちょこまかとすり抜けながらときどき顔を見上げてにゃ~と鳴いている。 「それは?」 「ああ、ビスケットだよ。これが大好きだったからね、持ってきたんだ」 「ビスケットが好きなんて、変な猫」  あたしがそう言うと、男の人は、ははっと笑ってベンチに戻り、鞄から残りのビスケットを取りだした。  赤い箱に沢山入ってて甘いけど、ちょっとぱさぱさするビスケット。 お母さんは、このビスケットを買うとき、必ず牛乳も一緒に買っていた。 「君にも上げようね」  男の人はビスケットを二枚、葉っぱのお皿に載せてベンチに置いてくれた。 「牛乳がないと食べられないの」  あたしがそう言うと、男の人はうなずいた。 「ああそうか、そうだよね」  白い猫がひたひたとコンクリートの小径を歩いてきた。ひょいと身軽にベンチの上に飛び乗って、甘えるように男の人の膝に手を掛けた。 「名前はなんていうの?」 「チビって呼んでたよ」  白い猫は名前を呼ばれてピクリとしっぽを揺らした。 「また会いたい?」  そう尋ねると、男の人は寂しそうに笑った。 「そりゃあね、すごく会いたいよ。毎日毎日、チビのことばかり考えてるよ」 「ふうん」  チビはベンチに置かれたビスケットに鼻を近づけて、ふんふんと匂いを嗅いでいるが、耳はちゃんと男の人の方へ向いている。 「きっとチビだって会いたいね」 と、あたしは言った。  ひんやりと湿った風が吹き抜けた。銀杏の黄色い葉が舞い落ちる。 「どうして、死んじゃったの?」 「事故だよ、車にはねられたんだ」  チビは他人事のように前足で顔を洗っている。耳から始まって額、ヒゲ、丹念に前足を舐め、もう一度耳。 「今ならまだ、チビはそばにいられるよ」  思い切ってそう言うと、男の人は一瞬、息を止めてあたしを見た。 「これからもそばにいて、時々ビスケットを囓ったり、おじさんが眠っている部屋の中を忍び足でうろつきまわったりできるよ」  チビも男の人と同じように動きをとめてあたしを見てる。ガラス玉のような青い瞳、風景を眺めるみたいに穏やかで揺れない眼差し。 「だって寂しいんでしょ? ずっと一緒にいたいんでしょう?」  あたしがさらに言い募ると、男の人はふっと止めていた息を吐いた。 「だけど、それじゃあチビはどこへも行けないんだよ。僕の想いに繋がれて、ずっとここに留まることになる」  それがどうしていけないのか、あたしにはわからない。 「チビはもう還らないといけないんだ」  優しい声だった。  黄昏が過ぎて、あたりには薄闇が立ちこめている。  男の人は最後に言った。 「遠く遠く離れていても、僕はずっとチビが好きだよ。抱きしめたり一緒に眠ったりできなくてもチビは僕の大事な友達だし家族だからね」  チビはベンチの上でう~んと伸びをした。  公園の出口の方を見て、男の人の顔を見て、もう一度出口を見る。 「ずっと好きなの? 離れていても?」  あたしはなんだかとても眠たい気がしながら訊いた。  疲れて眠たくて、早く休みたかった。  足元を見ると、靴が濡れている。  むき出しの素足に履いたスニーカー。 洗いざらしのワンピースは半袖で、バラの模様は跳ねた泥で見えなくなっている。  いいや、泥ではない。  泥ならこんなに鮮やかな色をしているはずがない。  そういえば、いつからあたしは公園であそんでいたんだっけ。  ここへ来たときはたしかに真夏の昼下がりだったのに。 「君はとっても可愛い女の子だったんだね」  男の人はビスケットの箱を鞄にしまい、立ち上がってパンパンとお尻をはたいた。  チビは足音もたてずベンチを飛び降りると、門へ続くコンクリートの小径を歩き出した。  陽気にしっぽをたてて、軽やかな足取りで。  あたしはつられるようにその後を追った。  公園の門を出て角を曲がる時、足元に飾られた花に気が付いた。  ピンクとオレンジのガーベラ、あたしの大好きな花だ。  お母さんはいつも、ここへ来て泣いていた。公園で遊ぶ子供たちの中に、あたしの声が混じっていないかと探していた。  お父さんは時々、会社の帰りにここに来てブランコに揺られながらあたしの事を思い出していた。  あたしがいなくなっても、お母さんは毎日お花を持ってきてくれる。  お父さんはブランコに乗りながら、いつまでもあたしのことを考えていてくれる。  だけどあたしはいつか二人のことを忘れるだろう。  チビがあの男の人を忘れてしまうように。  角を曲がると、そこは昼間のように明るかった。  乳白色の闇に満たされてゆく。怖くはなかったし、もう寂しいとも思わない。  最後に見たのが大好きな花でよかった。  無音の闇に包まれて、あたしは静かに両瞳を閉じた。        静かな長い秋の夜、澄んだ音色で鈴虫たちが歌い始めると、雲間から大きな金色の月が顔をのぞかせた。  甘やかでとろみのある蜜のような月光が誰もいない公園に降り注ぐ。  風が揺らすブランコ、金木犀の薫りが夜気に漂っていた。   
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