視線

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視線

「いってくるわね」 後ろから、お母さんの声がした。 私は、振り返ろうとしたけど、手がもたついた。 「なに、やってんだい!」 間髪いれず、おばあちゃんが叫ぶ。 「ま、まって。ごめんね、おばあちゃん」 私は、今開けたばかりのおしっこで重たくなったおむつを閉じて、立ち上がろうとした。 「どこいく気だー!!!」 おばあちゃんがふとんの上で、弱々しく、力の限り、両腕をばたつかせる。 おばあちゃんは、ベッドが嫌い。 布団じゃないと寝ない。 おばあちゃんは、上半分は起き上がるけど、足は動かない。老化と交通事故の後遺症。 「お願い。おばあちゃん、まって」 「そんなこと言ってー、そんなこと言ってー」 私が離れることをおばあちゃんは、許さない。 おばあちゃんの骨でかくばった指先が、私の後に束ねた髪に絡んだ。 「い、たたた。や、やめて。ほんの、ちょっとだから。お願い、まって」 私は、首の根本から頭を傾けて、おばあちゃんに近づくと、そのかくばった指先を開いた。 すかさず、髪の束を自分の胸元に引き寄せた。 おばあちゃんの目に、驚きと怒りが浮かんだ。 「どこ、いく気だー!!!」 おばあちゃんの部屋の扉はいつでも、開いたまま。私は、開いた扉まで、小走りで、かけた。 「なに、やってんだい!!なにやってんだい!!おいてく気かい!!このー、人でなしー!!!」 後ろで、おばあちゃんが叫んだ。 「待って。待ってよ、お母さん」 ダークグレーの上下スーツを着たお母さんが、玄関で黒いパンプスに片足をいれていた。 玄関だけど、段差がない。 登りがまちがない。靴入れだけが壁に作りつけられてる。大分前に、私たちの一軒家は、全面バリアフリーの工事をした。 外見は古いけど、中はぴかぴかだ。 「どうしたの?」 お母さんは、中腰になって、パンプスの踵に親指をかけた。 「お母さん、私。私・・・・・・」 言いかけて、言葉につまった。 「何?どうしたの?」 お母さんは、すっかり、両足にパンプスをはきおえて、私に向き合った。 パンプスの踵分の高さから、私を見おろした。 「もぅ、今じゃなくてもいいなら、呼ばないで」 お母さんの眉尻が下がる。 ブラウンのグラデーションがかったアイシャドウの入った瞼。ピンクのリップ。 控えめで、優しげで、それでいて、かちっとしている。パーフェクトだった。 「いってくるわね」 お母さんは、軽く微笑んで、玄関を出ていった。 私は、しばらく、玄関に立ったまま、動けなかった。 「なに、やってんだい!!なに、やってんだい!!なに、やってんだい!!なに、やってんだい!!」 おばあちゃんの部屋から、私を呼ぶ声が聞こえた。 朝だもんね。 バタバタするよね。 朝イチ、呼び止めちゃって、悪かったな。 ・・・・・・けどね、今しかなかったんだよ。 腕をばたつかせるおばあちゃんのおむつを変えて、私は、台所に行った。 四角いプレートに、プラスチックで出来たベージュのお皿を三枚並べた。 炊飯器を開けると、水でべちゃべちゃのごはん。 失敗。 ではない。 むしろ、成功。 これを、お玉でゆすって、一杯分、お皿に盛った。 ガスコンロに乗っかる片手鍋には、お味噌汁。 色が薄くて、白湯かと思う。 これも、成功。 おばあちゃんに、塩分は禁物だから。 お玉でゆすって、金平糖みたいな豆腐を三つ浮かべた。 私は、冷蔵庫から生たまごを取り出して、だし(無し)巻き玉子を作った。 目ばかりで、お刺身のお造りみたいに薄く切った。 これを三枚。 この隣に、昨日作った、ほうれん草のおひたしの刻んだのを置いた。 全部、自己流。 おばあちゃんの好みに合わせて、4年と5ヶ月と、3日かけて、この形になった。 「どこだー、どこ行ったー!!」 おばあちゃんが叫び出した。 薬、効かないなぁ。 私は、ぼんやりしながら、プレートを運んだ。 お母さんは、おばあちゃんと私のために、この一軒家を買った。 駅から15分の中古物件。 あれは、私が小学4年生のころだった。 二間の市営住宅に、お母さんとおばあちゃん、私の3人で住んでいたんだけど、ある日、この家に引っ越した。 私たちの家に、お父さんはいない。 お母さんは、未婚で私を産んだ。 だから、私はお父さんを知らない。 お母さんは、毎日、毎日、非正規で働いた。 休みの日は、バイトを入れたり、休みなし。 私の面倒は、おばあちゃんがみてた。 ある年、お母さんは、中途採用で公務員試験に受かった。 それで、しばらく経ったら、お母さんはローンが組めて、私たちはこの城に住みだした。 引っ越しが終わった晩に、10畳はあるこのリビングに、市営住宅から持ってきた、古くて茶けたちゃぶ台を置いて、おばあちゃんの作った、すき焼きを食べていたら、お母さんが言った。 「おばあちゃんに、これからの人生、安心してほしいの。めぐのこと、ありがとう。それに、遠い未来の話だけどね、私たちが死んだら、この家は、めぐのものなんだよ」 お母さんとおばあちゃんが、私を見つめる。 おばあちゃんが、私のピンクのくまの絵が描いてある深皿に、生卵を1つ割って、入れてくれた。 次は、お母さん。 そして、私、お母さんの順番に、焼けた甘い牛肉と長ねぎ、糸こんにゃく、なすび(おばあちゃんしか具材にしたところを見たことがない)を入れてくれた。 私が、夢中で食べていたら、視線を感じた。 顔を上げると、おばあちゃんだった。 おばあちゃんは、私とお母さんを見ていた。 ちらりと隣にいるお母さんを見たら、私と一緒。 すき焼きに夢中だった。 おばあちゃんは、笑っていた。 b6094c8d-d707-45be-842e-78cee49cdd97 家のローン、おばあちゃんの介護費用、それにバリアフリーの改装代、それに、私の生活費。 お母さんの肩に、乗っかってる。 おばあちゃんは、5年前に交通事故に合った。 買い物帰りに、自転車に乗っていたら、横断歩道で軽自動車と接触事故。 足が動かなくなって、頭の打ち所も悪くて、性格が激変。 優しい人が変わってしまうっていうのは、悲劇しかない。 それでも、おばあちゃんは病院のベッドで「家に帰る!」と言って、泣いた。 私は、高校を卒業するタイミングだったけど、夢なんてなかったし、おばあちゃんのお世話をしようって決めた。 おばあちゃんが、数ヵ月の入院、リハビリを終えて、私たちのお城に帰ってきた夜更け。 目を覚ましたおばあちゃんが叫んだ。 「どこだー!!!ここは、どこねー??」 おばあちゃんを挟んで、川の字で寝ていた私とお母さんは、すぐに目が覚めた。 それから、おばあちゃんは、そわそわそわした。 全然、寝そうにもない。 お母さんは、明日仕事。 隣の部屋に、お母さんは寝てもらって、私は朝が来るまで、おばあちゃんのそばにいて、声をかけ続けた。 95db6704-b83c-454c-b8ee-d2bfeb06e184 今日、おばあちゃんは、ごはんを食べ終わったら、デイサービスのお迎えがきて、出掛けて行った。 お迎えに来てくれた職員さんが、おばあちゃんのお気に入りの人で、その人の顔を見たとたん、おばあちゃんはなんとか落ち着いた。 それに、自分のお気に入りの車いすに乗るのが好きだから。 おばあちゃんは、自分の車椅子にしずしずと乗って、お迎えの車にしずしずと乗った。 「いってらっしゃい」 「いってきます」 返事を返してくれたのは、職員さん。 おばあちゃんを見送った。 おばあちゃんが帰ってくるまで、半日以上はあるけれど、しなきゃならない雑用が山のようにあった。 荒れた部屋の掃除、掃除、掃除。 洗濯でしょ、洗濯でしょ、洗濯でしょ、干して、干して、干して、食材の買い物、日用品の買い物、運んで、運んで、ごはんの準備、乾いた服を取り込んで、取り込んで、取り込んで、畳んで、畳んで、畳む。 大げさに言ってみた。 大げさに思ってる自分が恥ずかしい。 私は、居間のガラス張りの窓に自分を見た。 さっき、私が磨いたばかりだから、表面が光って、ハッキリと私の全身を写していた。 なんだか、自分とは思えない。 私って、こんなんだったかな? あの事故から、もぅ5年?? なんだか、あっという間だよ。 おばあちゃんは、あの時のままだし。 いやー、どんどんひどくなってるかも。 そういえば、高校の同級生は、職場に後輩できたり、大学卒業したり、就職したり、結婚したり、子供ができたり、海外に留学したり・・・・・・。 スマホなんて、めったに見ないけど、連絡が来るときは、そんな感じ。 会う時間なんてないのに、なんでも知ってる。 私、どうなっちゃうんだろう。 仕事もしたことないし、外に出るのはスーパーの買い物くらい。 お母さんとおばあちゃん以外に、話す人なんて、数えるくらい。 ご近所さんは、私のことどう思ってるんだろう。 髪はぼさぼさだし、いつもすっぴんだし、服なんてスウェットの上下だし。 完全に、世捨て人、引きこもり、ニート。 パラサイト。 他人からどう思われたって、いいよ。 そんなの関係ないよ。 好きでやってんだもん。 もぅ、死んじゃおっかな。 急に、私の胸によぎっていった。 ばか、ばか、ばか。 今の取り消し。 瞼を閉じると、目のきわが熱くなった。 0cae9c00-b70e-44ec-b7e3-ba50454b6f97 昨日の夜は、ひどかった。 おばあちゃんは、夜中に目が覚めた。 「めぐみー、めぐみー」 私は、その声に、すぐに目が覚めた。 隣に寝てるし、どんな小さな声だって、いつも私は気付いた。 でも、名前を呼ばれたのなんて。 いつの日だった?思い出せなかった。 信じられなかった。 「なに?どうしたの?」 「トイレ」 「トイレ?」 「行かなくてもいいよ」 「なんで」 「おむつしてるよ」 「トイレ」 「おむつ・・・・・・」 「トイレ」 「それは無理だよ」 私は、おばあちゃんが家に帰ってきて、すぐの頃、夜のトイレでおばあちゃんの体を支えきれずに、倒れたことを思い出していた。 おばあちゃんの体にアザができて、おばあちゃんは「痛い、痛い」と泣いた。 おばあちゃんの声に気づいて、お母さんが起きてきた。そして、救急車を呼んだ。 病院に行って検査したら、何もなかった。 怖くて、怖くて、私は震えた。 「おむつ変えるよ」 オムツに手を伸ばしかけたら、おばあちゃんの手がいきなり上がった。 おばあちゃんの手が、私の横っ面をはたいていった。 何が起こったのか、分からなかった。 だけど、頬は痛いし、目も痛い。 「おばあちゃん、痛いよ」 「しらん」 「もぅ、嫌だよ。おばあちゃんと一緒にいたくない」 涙があふれた。 「しらん」 おばあちゃんは、目をつぶって、起きてこなかった。 今朝、おばあちゃんは、夜のこと、何も言わなかった。忘れてた。 私は、もぅ、だめかもしれない。 d99f95a2-fa27-454d-9084-fc993db16175 デイケアセンターの送迎車が、家の前に止まった。 中から、車いすに乗ったおばあちゃんがおりてくる。 「ありがとうございました」 「はい。また、明後日」 車いすを押して、家に入る。 私は、おばあちゃんの車いすのタイヤを磨く。 車いすに乗ったまま、家の奥に向かった。 「横になる?おばあちゃん?」 おばあちゃんが、ゆっくり首をふった。 私は、車いすに乗ったおばあちゃんを台所のテーブルに連れて行った。 「私、晩ごはん作るね」 私は、おばあちゃんに背を向けて、冷蔵庫を開けた。 「めぐみ」 呼ばれた気がした。 振り返ると、おばあちゃんは、私を見ていた。 遠い昔に見た、あのままのおばあちゃんがいた。 私は、おばあちゃんの瞳の中に、吸い込まれていった。 3a831100-d872-4f17-b01b-8f1d64690664 おわり
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