55人が本棚に入れています
本棚に追加
/63ページ
相談室・1
どこまでも青い空に向かって煙を吐き出した。すっかり短くなった煙草を携帯用の灰皿に押し付ける。腕時計に目を落とすと、そろそろ4時間目が終わる頃だった。昼休みは訪れる生徒が多いから、そろそろ戻らなければならない。灰皿を内ポケットに閉まって、代わりにこっそりと拝借した鍵を取り出すと俺は屋上を後にした。
「先生聞いてよ、カレシが浮気してるっぽいの」
「ここは恋愛相談室じゃないから。そんなこと友達にでも話しなさい」
「こういうのは大人の意見が欲しいの」
「じゃあお母さんに相談したら」
「恥ずかしいじゃん」
「じゃあお父さんに」
「絶対にヤダ!」
スクールカウンセラーと生徒の関係は独特だ。教師ほど絶対的ではなく、勿論、親ではなく赤の他人で、友達よりも大人。そして保健室のように体調不良などなくても訪れることができる。
「ねえ、なんで男って浮気するの?」
「男が全員なわけじゃないよ。女性だって浮気する人はいる」
「先生は?」
「しないよ」
本当に?と疑り深そうにこちらを見る顔は幼いのに、その視線は大人びている。そろそろ休み時間が終わると告げると、不服そうに口を尖らせた。
「オトナは面倒になるとすぐに話を変えるよね。親も先生もみんなそう。あ、あと国会議事堂の偉いおじさんたちとか」
「大人は答えるべきことと、答えなくていいことを選別して話してるんだよ」
「なんかずるくない?」
「ずるいんじゃない、君よりも少し上手なんだ」
「やっぱずるいんじゃん」
「それくらいできないと君たちよりも長く生きてる意味がないじゃないか。ほらもう5分前だよ」
「相談室」には多くの生徒が訪れる。友達でも教師でもない「大人」に友人関係や恋愛相談をする生徒や、不登校の生徒を抱えるクラス担任。保護者もまたその対象となる。内容も、この生徒のような気軽なものから切実な思いを抱いたものまで、中学生の悩みはみな同じようでいて千差万別だ。
例えば、こうして明るく話している生徒であっても、常連になるほどここにきていることを思うと、もしかしたら何かしらの問題を抱えている可能性だってある。表面上の態度だけで判断できないのは子供とて同じだ。スクールカウンセラーは彼らの問題を一緒になって抱え込むのではなく、悩みを自意識の舞台に立たせ、表出の場として他者的にアドバイスをする。少なくとも自分はそうだった。
女子生徒は文句を言いながらもまた来るねと部屋を出て行った。
それから放課後まで特に生徒が訪れることはなく、グラウンドから聴こえてくるバットがボールを打つ気持ちのいい音を聞いて今日はもう閉めようかと思っていると、一人の生徒が控えめに顔を出した。ここを訪れるのは初めてのはず、と脳内の覚え書きをめくりながら「こんにちは」と挨拶をした。スクールカウンセラーとして大切にしていることが、生徒の顔を覚えることだった。例え一度来ただけだとしても絶対に忘れないようにしていた。
「いいですか」
「どうぞ座って」
スクールカウンセラーが常駐する相談室にはいくつか椅子があって、デスクのそばと、応接セット、それから少し離れた窓辺に予備の椅子がいくつか。どれとは指定せずに勧めたが、彼はそのどれに座るでもなく立ったままだった。
「先生は煙草を吸うんですか」
「え、臭う?」
煙草を吸うときは白衣を脱いでいる。戻ってからも、シャツには念入りに消臭スプレーをかけたつもりだったのだが。
「少しだけ」
「気をつけよう。バレたら叱られるから」
俺の冗談には笑わずに、生徒は所在なげにそこに立ったままだった。
教師に勧められてやって来たという彼は、いじめという程ではないがクラスで浮いていると彼の担任から聞いている生徒だった。成績は優秀で物静かな、本人になんの問題もないのが問題だと担任教諭は深いため息をついていた。とはいえ、いじめの対象になる生徒には大概落ち度はなく、根本の解決が難しいことがいじめ問題の一番の難点と考えている。彼の場合、まだそこまでの深刻なものではないようだし、一人が好きな子もいないわけではない。しかし何かのきっかけさえあればいじめに発展しかねないため、一度話を聞いてほしいと担任から聞かされていた。
「何をしているんですか?」
心許なさそうに立っていた彼が、俺の手元を覗き込んだ。手元には書きかけの便箋が置かれていて、それに気がついて彼は慌てて距離をとった。
「すみません」
「いや、ここで書いてるこっちが悪いのだし。そもそも見られて困ることは書いてないしね」
「友達、ですか?」
「世界中をね、回っているんだ」
卒業後、就職せずに海外青年協力隊に参加した友人は、その任期が終わった後も世界の各地を回っていた。時々その土地のきれいな絵葉書なんかが送られてきたりする。返事を書くために持ってきていたそれを引き出しから取り出して差し出した。彼はそれをおずおずと受け取る。
霧深い峰々の朝を切り取った写真。今はアジアを回っているらしかった。
「すごいですね」
「そうだろ。時々は日本に帰ってくるけどほとんど海外にいるんだ」
「ほとんどですか」
「そう。年に一回顔を合わせればいいところだな。その代わりにこうして定期的に手紙が届くんだ。その土地の絵葉書だったり、写真が同封されていたり」
「いいな……」
親からのプレッシャーがあるらしい成績優秀な彼は、旅の空を想像しているのか遠い目をした。どんなに頑張っても、ただのスクールカウンセラーである自分では彼を遠くへ連れて行ってやることはできない。せいぜい自分にできることといえば、その遠くへ行きたい気持ちを後押ししてやることぐらい。
自分の無力さばかり感じる毎日だ。
「俺もいつか遠くへ行けるかな」
彼はぽつりと呟いた。切迫感はない。どちらかと言えば叶わないと知っている夢の話のように聞こえた。
「まあ誰もがそんなふうに生きるわけじゃないからね」
「そうですね」
「年に一回だけの温泉旅行でも結構気晴らしになるよ?」
彼は、少しだけきょとんとしたあと愛想笑いなのか本当におかしかったのか、小さく笑った。風がそよいで前髪を揺らしていく。
「どんな人なんですか」
その友達は、と興味を持ったものか、絵葉書を持ったまま彼は小さく問いかけた。
最初のコメントを投稿しよう!