21人が本棚に入れています
本棚に追加
当時を偲ぶような品は、何一つ残っていない。
全て空襲で焼けてしまった。
それでも良いんだ。
大切なものは、みんなここにしまってあるから。
祖母は微笑んで、大事そうに懐に手を当てた。
そして、青年の顔をまじまじと見つめてフフフと笑った。
泣き笑いのようだった。
どうしたの。
青年が驚いて尋ねると、祖母は泣き笑いのまま言った。
秘密だよ。
半年後、祖母はこの世を去った。
穏やかな最期だった。
今年は、祖父と並んで桜を眺めているだろう。
青年は思いを馳せる。
戦いの中に散った祖父と、多くを語らなかった祖母。
隣家の姉妹。
この地に生きていた、多くの人たち。
果たして僕は、今をきちんと生きているだろうか。
大切な人を守る力はあるだろうか。
墓地を後にしようとする夫婦の背後から、一陣の風が吹き抜ける。
息を呑んだ。
青年は確かに見た。
風の道を。
つられて振り向いた妻も眩しそうに目を細めている。
一瞬の出来事だった。
気づいた時には既に風の道は消えており、柔らかな風が二人の髪を揺らしていた。
その風は青年たちを励ます母のような、それでいて人懐っこい子どもが遊びの相手をねだるような、不思議な肌触りだった。
今また、無邪気に青年の鼻先をくすぐって行く。
心に温かいものを抱きながら、青年は妻とともに歩き出す。
僕らはきっと、大きな何かに守られている。
新しい生活は始まったばかりだ。
青年はふと空を仰ぐと、心地良さそうに微笑んだ。
<了>
最初のコメントを投稿しよう!