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序章『凍雲の日のひとり』
――ひとたび転げ落ちてしまえば、後戻りはできないぞ。
冷めた風の囁きと共に、記憶の奥底から忠告の声が蘇る。
それは不快な気分を伴って、深く鼓膜に刻まれていた。まるで寒冷な高山に実る赤いトルワの若い実を、歯で思い切りかみ砕いた時、口の中でキシキシと痺れ続ける苦く渋い感覚のように、どうにも後味の良くないものであった。
声は諭すような落ち着きを含み、そしてどこか悲しみに沈む。心から憂いているのだとでも言いたげな口調と、その悲痛で切迫した声音が、残響が、未だ薄らと心の底に絡み付いていた。
――ひとたび、転げ落ちてしまえば……。
ミレアには、かつて互いを親友と呼び合った者に、そう言葉を掛けられた記憶がある。
けれども親友は、その言葉にどのような感情を込めていたのだろう。
ミレアは昔も今も、あの言葉の意味を理解できずにいる。何故そう言われたのか、いつ言われたのか、どのような状況で言われたのかさえ、もはや記憶は朧気だ。
ミレアの記憶は虫が食った後の葉のように穴だらけになり、以前の記憶は曖昧で、所々が抜け落ちてしまっていた。
もしかすれば憂いや心優しい忠告などではなくて、きつく非難するものであったのかもしれない。警告やら勧告やら、厳しい言葉であった可能性もある。
今はもうそれを確かめるすべさえ無く、頭の内でひとりでに語られる声は、ミレア自身が作り出した自分勝手な想像に過ぎない。
今日も、あの言葉と声が、心に絡み付くよう浮かび上がる。
ただ一つ言えることは、声が蘇る度に、ミレアは何とも言えない不快な気持ちになった。ドロリと粘る泥のような気持ちが一気に溶け、混ぜ合わさり、喉の奥底から何か良くないものが込み上げてくるのだ。
(もしその手を取ってたら、あなたは私を助けてくれたの?)
耳の奥に絡みつく声が鬱陶しく、ミレアは全てを振り落としたくて、首を横に振った。
その拍子に、背中の上で編まれていた銀糸の髪がゆるりと解けて、ミレアの視界の端で、いくつもの線が舞う。
解けた髪もそのままに、木々の先を見上げると、ミレアは灰色の空に右手を掲げた。白い光がじわりと手元で滲み、それをぐっと掴む。光の礫と共に現れた、ミレアの世界で唯一無二の相棒。その銀の杖は黒墨の色に変わってしまっていた。
杖を握る度に、現実が突き付けられる。何度見ても、何度やり直しても、色はもとには戻らない。
それは、ミレアが、この世で最も醜いと憎しみを抱く、罪を犯した者の色。
【禁止魔法】を紡いだ、その罪業の証だった。
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