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速水俊太郎
速水俊太郎の名前は「谷川俊太郎」を敬愛していた父親がつけたものだった。
小学生のとき、自分の名前の由来を調べるという宿題で速水はそれを知った。父親の好きだった人物から名前をとったと聞き、大事にしているという詩集を見せてもらってなんだか気恥ずかしいような嬉しいような気持ちがしたのを今でも覚えている。それから何年も経ち、父親が死んだ今でも谷川俊太郎の詩集は宝物だった。
だから、気乗りしないまま仕事の先輩に連れられて行った場末のクラブで、隣に座った派手な格好のわりには控えめな女が谷川俊太郎を好きだと言ったとき、速水はこの女を好きになるという予感があった。そして奇跡的なことに彼女も速水を好きになってくれた。そうなってからは本当に早かった。
ただ一つ誤算だったのは彼女に嫌な男がついていることだった。
「速水ーそろそろあがれよー」
「はい!これ終わったら!」
機械音が響く工場内で張り上げた声に社長が苦笑して手を上げた。
社長、といっても従業員は7人しかいない小さな町工場だ。一時は不況の煽りを受けあわや閉鎖かというところまで追い込まれたがなんとか持ち直した。そのとき半分は解雇されたが速水は残ることができた。
「もうすぐなんだろ」
「はい!予定では来週くらいで」
「じゃあさっさと帰ってやれよ。嫁さん心配だろうが」
「いやあでも親が結構近所で、しょっちゅう世話やいてくれるんで俺全然やることないんすよ」
「そうそう、男は稼ぐしかないんだから、俊ちゃん一生懸命働きなよ」
一回りも二回りも上の先輩たちが背を叩いてくれる。速水は小さいながらも仕事にプライドを持つこの町工場で働くことができて本当によかったと思った。
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