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男は先ほどから変わらない温度のない表情で片平を見下ろしていた。
瞬間、男が片平の話した全てのことに一切関心を示していないことに気が付いた。何を言っても通じない。自分の思いなどこの男の前では何の意味も持たない。
そう思った途端、片平は爆発的な怒りが萎んでいくのがわかった。代わりに沸き上がるのは、恐怖。
「だ、誰か来たらただじゃすまないぞ」
男の表情は変わらない。
何か、盾になるものを。
「俺の家が片平だと知っているのか?うちを敵に回せばっ」
「その程度のもので一条は揺るぎませんよ」
ぐっと息が詰まる。片平は生まれてから今まで、ここまでの暴力にさらされたことがなかった。そしてこれほどの恐怖を感じたことも。
「たとえ、それで一条家に損害が出たとしても知ったことじゃねえんだよ、親のスネかじってるくそガキが」
「ひっ」
低い恫喝に片平は体を震わせた。掴まれていた襟首を離されると男の足元にへたりこむ。膝がガクガクと震えて立ち上がることができない。
「もしもまだお前が和泉様に害をなすならば、一条家にどんな妨害をしかけようが、私個人に圧力をかけようが」
男はしゃがみこんだ片平に目線を合わせた。その何の温度もない瞳が片平を捉えた。
「必ずお前を潰しに行く」
それだけいうと男は立ち上がり一度も片平を振り返らずに出ていった。後には腑抜けた片平と、パンの入ったビニール袋が残る。
「何で、あいつばかり、あいつばかりが大切にされるんだ」
どうして、どうしてと繰り返す片平の耳には、昼休みの終わりを告げるチャイムの音は届いていなかった。
「お帰りなさいませ、和泉様」
高級車が列をなす校門前でも一際美しい黒の外国車のドアを開けながら西嶋が言った。和泉は慣れたようにその後部座席に収まる。西嶋は流れるような動作でドアを閉めると自らもその運転席に乗り込んだ。
車がスタートするのと同時に和泉が口を開いた。
「本屋へ寄ってくれ」
「かしこまりました」
和泉は一度、開いた文庫本に目を落としたが、ふと思い出したように顔を上げる。
「そういえば今日は靴の中は空だった」
「それはようございました」
「最近は連日入っていたからこれで終わったならいいが」
「さようでございますね。昨日の靴は洗っておきましたから、明日には乾いているかと」
「お前自分で洗ったのか」
「もちろん」
ため息を落としながら和泉が呟く。
「それは執事の仕事じゃないだろう」
「私の仕事は」
執事はその端正な顔にあるかなしかの笑みを刷いたまま、年若い主人の呟きに答えた。
「和泉様に関するあらゆる全てのこと、ですから」
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