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柳田は自分の思いを存分にこめた手紙をしたためた。一度では伝わりきらないと何度も出した。家に直接入れるのは犯罪者のようなので、柳田はきちんと切手を貼りポストに投函した。いつかきっと返事がくると信じて。
マンションの窓に設置した高性能の望遠鏡で彼の部屋を覗くたび、何かを読んでいる和泉を見るときっとあれは自分の手紙だと思った。自分の手紙に彼が触れたと思うと異常に性感が高まった。気持ちが通じ合ったのだと思うと幸せだった。
しかしそれはある日、突然破られる。
買うことに少しもためらいを感じなかった高性能の望遠鏡を覗き、彼の無人の部屋を見ているとチャイムが鳴った。
もちろん高級マンションであるこの建物のセキュリティは完璧で、予め住人が管理室に伝えている者以外が通ることはない。たとえ訪ねてきたとしても案内はされないし、受け付けでいないと伝えられるはずだった。だからこの部屋のチャイムが鳴ることはない。なぜなら柳田は誰も通ることを許していなかったからだ。ただ一人を除いて。
柳田は興奮していた。そう、彼が唯一このマンションの部屋にくることを許していたのは。
「和泉……!」
勇んでドアを開いた柳田の前に立っていたのは全身が真っ黒な出立ちの背の高い男だった。銀のフレームの眼鏡が冷たい印象で、その端正だけれど怜悧な顔が会社の嫌な上司を思い起こさせた。柳田は怯む。
「だ、誰だ」
「西嶋と申します」
ああ、この男の顔はどこかで見たことがある。その時もあの上司を思い出していやな気持ちになったはずだ。いったいどこで見たのだったか。
「一条家にお仕えする者です」
そう言った男のことを思い出した瞬間、隙だらけの柳田の襟首を掴み玄関の壁に叩きつけると男は素早く入り込んだ。急な暴力に咳き込む柳田を尻目に男はずかずかと土足のまま奥へと入っていく。
一番奥、寝室のドアを開けると男は躊躇いなく入った。そこだけは絶対に誰にも入らせたくなかった聖域に土足で踏み躙られた屈辱感。怒りでめまいがしそうだった。男は立ち止まると、さっきまで彼が覗いていた望遠鏡を掴み床に叩きつけた。ガシャンと高い音がして見るも無惨な状態になった望遠鏡に柳田は一瞬意識が遠のきかける。高額なものを壊されたからではない。それは彼と和泉を繋ぐ大切なものだったからだ。
呆然としている柳田を男が振り返る。その視線には蔑みもなければ温度もない。
「あなたが出した手紙を、和泉様は一度として手にしたことはありません」
「なっ……え?」
「あの手紙の存在さえご存知ありません」
男の言っている意味が分からない。自分のあれだけの愛情が伝わっていない?和泉と自分は確かに通じ合ったはずなのに。
「もちろん今後も届くことはありません。永遠に」
柳田は息ができなくなって口をぱくぱくさせた。陸の魚のように。
「もう間もなく管理人がこちらに伺い転居命令を出すと思いますので従って下さい。従わなければ警察を呼びます」
男が近づいてきて座り込んでいた柳田に目線を合わせる。ふわりと上品な香りがした。柳田の耳元に吹き込むように、
「和泉様はお前のことなど知らない。お前ごときを愛することもない。勘違いも甚だしい、和泉様はお前の存在さえ認知していない、クズが」
柳田は世界を棄てた。
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