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プロローグ
とある高級ホテルの前に停まった車から、全身を黒い服に包んだ男が降り立った。黒髪をサイドに流し、銀のフレームの眼鏡も麗しい端正な顔を晒している。男は後部座席のドアに手をかけると音もなく開き、腰を折った。
「足元にお気を付け下さいませ、和泉様」
磨き上げられた革靴が地面を踏むと一人の少年が車から降りてきた。一七、八と見えるが、それにしては仕立ての良いスーツ姿は少し線が細いようにも思える。少年は隣に立つ黒服を見上げた。
「時間には間に合っているのか」
慌てる素振りもない少年に気負った所はないが、年上であろう黒服に対する態度は人を使うのに慣れたものだった。男もまた当然のように少年に対して丁寧な態度を取っている。
彼は少年の家に仕えている執事であり、つまり少年は男にとって主人なのであった。
「少しも間に合っておりません」
「駄目じゃないか」
「お言葉ですが、和泉様がいま少し早く出て下さればよろしかったかと」
慇懃無礼に告げると、執事は車のドアを静かに閉めた。ベルボーイに鍵を渡すと、車は深海魚のように静かに走り去って行く。
「大体乗り気ではなかったんだ大伯母の誕生会なんて」
「存じております」
「そういう時は無理にでも車に乗せてくれ」
少年が歩きだすと、一見シンプルながらも繊細な木彫りの細工が施された扉がゆっくりと開かれる。その横で深く腰を折るドアボーイにも、順に頭を下げていく居並ぶ正装のホテルマンにも彼らは意を介した様子はない。
「しかし和泉様」
「なんだ西嶋」
主人の少し後ろを歩いていた執事がやはり慇懃に言葉を継ぐ。
「和泉様は先日お買い求めになられた本を読んでいらっしゃいました」
「待ちに待った新刊だったから」
「存じております。それを無理に奪えばお怒りになられたでしょう」
「確かに」
異国の民族衣装のような美しい模様の大理石の廊下を歩きながら少年は頷く。
壁には意匠の凝らされた額縁に貴婦人たちが水浴びをしている優雅な絵が掛けられており、高い天井には愛らしい天使が舞い遊ぶ天上界が広がっている。そこから下がるシャンデリアは遠目にもわかる素晴らしい造形。
しかしそれらには目もくれず歩く少年は僅かに首を傾げたのち口を開く。
「けれどこれで遅刻したら」
「現在進行形で遅刻でございます」
「遅刻したら。責任はお前にある」
すれ違ったご婦人方が見惚れるように、時にはあからさまに誘うような流し目を送るが当の執事には全く届いていない。
「しかし和泉様」
「なんだ西嶋」
「わたくしは大叔母様のお怒りに触れることよりも、和泉様のご不興を買うほうが嫌でございます」
眼鏡の奥の目を細めて微笑う執事に、周りのご婦人方がほう、と息を吐く。少年は足を止め隣の男を見上げるとほんの少し笑った。
「齋藤にどやされるぞ」
「重々承知しております」
重厚な金の装飾が施されたドアの前に立つと、左右にいた正装の男が扉に手をかける。ドアが開くとまるで波に呑まれるように室内楽の華麗な調べに包まれた。
「クビにされるなよ」
「当然でございます」
執事は賑やかな室内よりもずっと落ち着いた、しかしよく通る声で囁く。
「ようやく和泉様にお仕えすることを許されたのですから」
未だ煌びやかな中に足を踏み入れずにいる少年が思いついたように言った。
「このつまらない会合が終わったら」
「はい」
「あの裏道のラーメンを食べに行こう」
主人の言葉に執事はゆっくりと腰を折り承知の意を伝えた。
「かしこまりました、和泉様」
少年は己の僕に微かに笑った。
美しい弦楽器の調べと色とりどりのドレスやカクテルも華やかなパーティーホールに、まだ若き主従は足を踏み入れた。
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