小夜子の酒

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小夜子の酒

「お酒を呑むのは嫌いじゃないのよ。でも呑んでわけわからんヨッパになるのは嫌なんだ」 「へえ。まあそれは誰でも嫌だわな」 渋谷駅のロータリーのバス停前。 東急文化会館のプラネタリウムのドームが夜空にそびえている。 巨大な映画の看板や、地下鉄なのに駅ビルの4階につながる、銀座線の高架。 バス定期売り場脇のクレープハウスユニからは、焼き立ての良い匂いが容赦なく襲う。 小夜子の隣でバス停の手すりに腰掛けて缶コーヒーを飲む男は、この匂いに負けないのだろうか。文化会館の映画の巨大看板にキラキラしたまなざしを送っている。 「小夜子、ラビュタもう一回観に行かね?」 「行きません」 「クレープ買ってやるから」 お駄賃か。そんなんじゃなくて、こちらは言いかけた「酒の飲み方の矜持」を聞いてほしいのだ。 「お酒はさ、美しくスマートに呑みたいと常々思っているわけですよ」 「ご立派」  大学進学と共に上京した彼女の実家は東北だ。  世間で酒どころと言われる故郷の、父も同居の祖父も叔父や叔母も、当然のように全員呑み助だった。  酒にまつわる記憶で彼女の脳に焼き付いているのは、親戚や隣組の改まった会合の後に始まる、グダグダな無礼講の二次会・三次会。  普段はきちんと居ずまいを正した優しい大人たちが、顔を赤くして乱暴な口調に豹変する。  そして大声で親戚の女性を呼び捨てにして、やはり酔って眼のふちを赤くしたおばちゃん達の体に抱き着いたり、服の上から隙間から乳房を握ったり、スカートの下の太ももを撫でまわしたり。  人口が少ない雪深い北国の田舎町だからか、人が集まれば家の中でも外でもすぐ酒が出る。いわゆる呑みニケーションだ。  確かに、呑み屋や外国人パブ、スナックや居酒屋は、少ない人口に反比例して多かった。  同級生の母親が経営するスナックで、学校の先生と担任する教え子の父兄が、可愛いフィリピン人のお姉さんを巡り殴り合うなど日常茶飯事だったし、そんなトラブルを回避するのも『自己責任の上でのスキル』だった。  そのうえ男女の酒の上でのトラブルは両成敗もしくは男の側に圧倒的に有利である。  そんな風土のもと自分の身を守るため、小夜子も高校を卒業するころには、大の男とサシで飲んでもびくともしない程度にアルコールに強くなっていた。  子沢山の家に生まれ、年の離れた兄弟から保護されて育った母は、そうした故郷にあっては珍しく品行方正で「そんな子に育てた覚えはない」と小夜子を嘆いた。
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