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「亮一、起きなさい」
優しい声。
猫撫で声、というべきだろうか。たとえ布団に潜り込んで聞こえない振りをしても、揺り動かしたり布団を剥いだりしないとわかっている。
「亮一」
売り言葉に買い言葉で激情に任せて本心を吐露できればどれほど救われただろう。
亮一は苛立ちながらゆっくりと身を起こした。
母の甘さを都合良く利用してきたのは自分なのに、今になって腹を立てている。
母はとても弱い人なのだ。他人の感情を受け止めることができないから、爆発する前に優しさで蓋をする。
寝間着のまま洗面台の前に立つ。あちこちに飛び出した寝癖がハリネズミのようだ。髪を濡らして整えたが、乾けばまた元に戻ってしまうだろう。
食卓にはナスの味噌汁がある。その隣はナスの漬け物を乗せた白いご飯。おかずは卵焼きだけで、亮一の口に合うよう、特別甘く味付けされていた。
どれも亮一の好物である。父の食べ終えた食器を横目に食べ始める。
かつて並んで家を出ていた父は、最近早出と残業が多い。
母はコップに水を注いで置いた。
「上の階の人が亡くなってたって」
いつでもうつむき加減で背を丸めているから、ただでさえか細い声はくぐもって聞き取りにくい。
「連絡が取れなくなったから、親戚が心配してきてみたら何日も前に亡くなってたらしいの」
亮一は顔を上げた。
「二階上の人?」
「え? う、うん…そう」
戸惑いながら応える。日頃何を言っても無関心だから、息子の反応を予想できなかったのだろう。
亮一はその一言以外口を聞かなかった。時々思い出したように父親の空席に目をやる。
食べ終えて食器を流しに置いたところで、背中に声をかけられた。
「今日は学校に行くの?」
行きなさい、とは言わない。
「うん」
亮一は短く応えて自室に引き上げた。
喜んでいるのだろう、息を呑む気配が感じられたが、気づかぬふりをした。
壁には学生服がかかっている。
漆黒の詰め襟は「クラシカルだから人気があるのよ」と母が言っていた。
今は二学期も半ばである。新品同様なのは不自然だった。
ハンガーから外して袖を通す。
入学時の採寸から身長は変わっていないので、サイズに問題は無い。
しかし着慣れていないから体に馴染まず、固い生地でロボットのような動きになった。
真新しい教科書と白紙同然のノートを詰め、鞄を手にする。
緩慢な動作で玄関に向かった。
「いってらっしゃい」
母が狭い階段で半身を出して手を振っている。心配そうに眉根を寄せ、しかしどこか誇らしげでもある。
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