0人が本棚に入れています
本棚に追加
僕は死にたいと思って、山に来た。
今まで務めていた会社の上司に、パワハラされて。
死んでやろうと思った。
僕が企画したもの、まだ書き出しから、ダメ出しして、
挙句の果てに、「環境に優しくない」とまで言われたんだ。
つまり、資源の、紙の無駄だと。
何て言う、「罪悪感」だろう……。
どうせ死ぬなら、景色の綺麗なところが良いと思った。
空気が澄んでいて、静かで。誰もいなくて。
そう、僕は、ただ静かに、独りで過ごしたかったんだと思う。
霧が立ち込めていた。足場は、濡れて、湿っていた。
僕の靴に、土の泥がつく。
こんな薄い、スニーカーなんて、脆いものだ。
岩場を登って、一息ついた時、
富士山が見えた。
あ、僕は死ぬんだと思った。
遺書には、家族への謝罪、こんな意気地なしの僕を許して欲しいこと、
死ぬ動機である、上司から送られたメールの束を同封して、
僕の部屋の、机のよく目立つところへ、置いてきた。
妹が来たら、すぐ見つけてくれるだろう。
僕が、カウンセリングを受けた時、僕のアイデアと、
僕の人格とは、別物だと、心理カウンセラーの先生は、言っていた。
だから、企画を否定されたことは、人格を否定されたことにはならないと。
でも、僕にとっては、同じことだ。
毎日、徹夜して、満員電車に揺られて、
そんな僕から出てきたものは、僕の心の一部だったんだ。
顔が、かあーっと、熱くなった。
この気持ちは、何だろう。
無力な自分への、憤りだろうか?
「あら、道に迷って、どうされたの?」
「……?」
日曜日の朝、早起きして、誰もいない時間を、選んできたつもりだったのに。柔らかい声に、顔をあげると。
黒髪の、浴衣の袖が、見えたんだ。
「近くの神社でね、今日は、秋祭りやってるの。味噌饅頭が名物よ。」
色白で、艶のある黒いつぶらな瞳が綺麗な人だった。
彼女の手には、紙の風車が、握られていた。
彼女が、それを、「ふう」と吹くと、
周りの霧まで、飛ばされて、晴れていくようなのが、不思議だった。
「秋祭りかあ。良いですね。」
子どもの頃、妹のさちと、手を繋いで、縁日に行ったのを思い出した。
金魚がとれなくて、泣いたさち。
風船を、離してしまって、泣いたさち。
泣き虫のさちに、「お兄ちゃんだけずるい」と、怒られないように、
僕は、さちのとれなかった金魚を、さちの手を持って、一緒にとってあげたり、水風船を、かわりにたくさんとってあげたり……。
あ、さちは、どうしてるだろう。
短大を卒業して、東京で、独り暮らしをして、彼氏もできたようで、
でも、月に一回は、兄の顔を拝みに、夕食を作りに来てくれる、
兄思いで義理堅いさちは。
「一緒に、行きましょうか。観光でいらしたんでしょ? 案内してあげる。」
黒髪美女に、連れられて、僕はまた歩きだした。
ほんとだ。さっきまで気づかなかったけど、
お囃子の音もする。
「お兄ちゃんも、早く、彼女を作りなね。」
さちの声が、聞こえた気がした。
そう、こんな綺麗な人を、連れて帰ったら、
さちは、びっくりするだろうな。
「お兄ちゃん、やるじゃん。」と。
さっきは、霧でよく見えなかったけれど、黒髪美女の、袖には、
よく見ると、紅い曼珠沙華が咲いていた。
それから、僕は半日、お祭りを楽しんだ。
獅子舞もみた。狛犬も、動きだしそうな、白い石の門番で、
思わず、頭をなでてやった。
「今日は、あなたのお祭りなのよ。」
ふいに、黒髪美女が言った。
もう、夕方だった。
オレンジ色の空のせいか、
彼女の浴衣の曼珠沙華が、茶色く、
霞んで見えた。
どういう意味か、わからなかった。
それは、僕と、「デート」ってことかな?
あれ、どうして、僕はここへ来たんだっけ?
祭囃子の音は、消えていた。狛犬も、
汚れていた。さっきまで、人の往来があったとは思えないほど、
神社の境内は、静まりかえっていた。
「道に迷われて、どうしたの?」
見るとそこには、枯れかけた曼珠沙華が、一輪咲いていた。
僕は、早く帰ろうと思った。
さちが、夕食を、作ってくれているから……。
最初のコメントを投稿しよう!