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恋
夏休みも終わり、二学期が始まった。夏休み中の乱れた生活時間の癖が抜けずに、眠そうな顔をして登校をしている者が多い。まだ照り付ける暑い日差しのせいで、余計にぐったりとした顔をしている。大きな欠伸をする者。体を重そうに、引き摺りながら歩いている者。逆に二学期が始まり、久しぶりの登校に胸を弾ませている者。色々な顔をしている生徒達の姿が、校門を潜り抜けている。
そんな中、どの生徒よりも落ち込んでいる様子で、顔を暗く沈ませながら校門を潜る、一人の男子生徒の姿が有った。丸まった背中に、時折漏れる溜息から、誰が見ても明らかに憂鬱そうだと分かる。
「おはよう。二学期早々、誰よりも沈んでるな。」
丸まった背中をポンッと軽く叩き、挨拶をして来たのは、爽やかな笑顔が印象的な、渡瀬悠木だ。
休み明けにも負けず、元気な声で挨拶をして来る悠木とは裏腹に、誰よりも落ち込んでいるのは時谷穹。二人共高校二年生で同じクラスだ。
穹と悠木は一年の時も同じクラスだった、仲の良い友人同士だ。真面目な性格の穹とは対照的で、悠木は少し浮ついた性格をしている。本来なら余り仲良くはならなさそうな組み合わせだが、意外にも二人の気はピッタリと合った。その理由は簡単。音楽の趣味が、全く同じだったと言う事だ。
「おはよう。お前は元気だな。」
力無く穹も朝の挨拶をすると、また一つ溜息を零す。更に顔を沈ませる穹に、悠木も軽く溜息を吐いた。
「まだ落ち込んでんの?予選落ちした事。」
「別に・・・。」
穹は視線を足元へと落とすと、ムッと不機嫌そうな表情を浮かべた。
「別に落ち込んで無い。只悔しいだけ。」
「それって、悔しくて落ち込んでるって事じゃねーの?」
「そうかも・・・。」
悠木は少し呆れた表情を浮かべると、隣で顔を俯けながら歩く穹の頭を、バシッと少し力を入れて叩いた。
「痛っ!何するんだよ。」
叩かれた頭を摩りながら、悠木の顔を不貞腐れた顔で睨み付けた。悠木はクスクスと可笑しそうに笑っている。
「お前何でもかんでも、真剣に受け取り過ぎ。また来年だってコンクール有るんだからさ。そん時リベンジしてやればいいじゃん。」
気楽な口調で言って来る悠木に、穹は不満を感じてしまう。
「そう言う問題じゃないんだよ。三年生にとっては、今年最後だったんだから・・・。何て言うか・・・。」
「罪悪感?」
口籠る穹の変わりに悠木が言うと、穹は無言で頷いた。悠木はまた、呆れた顔をしてしまう。
「てか、別に穹が悪い訳じゃないだろ。ハッキリ言って、レベルが低いんだよ。うちの高校の管弦楽部はさ。穹のレベルが高いだけ。お前演奏する時、周りに合わせてワザと下手糞にしてるだろ。ソロだとめっちゃ上手い癖にさ。」
悠木に図星を突かれてしまい、穹は少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
「別に・・・めっちゃ上手くはないよ。確かにまぁ・・・少しは周りに合わせてる所は有るけど・・・。」
「謙遜謙遜!」
穹は管弦楽部に所属をしていた。落ち込んでいたのは、管弦楽コンクールで、予選落ちをしてしまったせいだ。元々穹の通う高校は、管弦楽で有名な高校と言う訳でも無かった為、去年も一昨年も、予選落ちをしている。言うならば万年落第生だ。
穹と悠木が意気投合した理由も、このお陰だ。二人共音楽は、クラシックが何よりも好きだった。特に歌劇が好きだったりして、男二人で舞台を見に行ったりもしている。傍から見たら、変な勘違いをされてしまいそうだが、趣味の共有が出来る事は、何よりも嬉しい。特に今時の男子高校生で、クラシックや歌劇等と言った、少し大人染みた音楽を好む者は少ないから余計にだ。
同じ部員の者でも、やはり女子の割合が多く、同性で分かち合える者は少ない。本当に好きでその道を目指す男子は、管弦楽の有名校へと進学をしているだろう。本来なら穹も、そう言った高校へと進学してもおかしくは無かった。だがそうしなかった事には、彼なりの理由が有った。
「あ・・・。」
ふと悠木は足を止めると、前の方で歩いている、一人の女子生徒の姿に気付く。「何?」と、不思議そうに穹もその場に足を止め尋ねる。悠木はクイッと、顎で女子生徒の方を示し、「白井音苑。」と一言だけ言った。
白井音苑と言う名に、穹は過敏に反応してしまい、一瞬心臓が飛び上がった。ゆっくりと悠木の視線の先を辿って行くと、短い髪をした色白の、綺麗な女子生徒の姿が目に入る。まだ蒸し暑いと言うにも関わらず、長袖の制服を着ていた。
「彼女、夏服着てるとこ見た事ねーよな。暑くねーのかな。噂じゃリスカの痕、隠してるらしいって聞いたけど・・・。お前見た事有る?同じ中学だったんだろ?」
少し冷めた表情で悠木が聞くと、穹の顔は暗く曇り、低い声でボソリと答えた。
「見ない方がいいよ・・・。」
足早にその場から歩き出すと、これ以上の質問を拒否するかの様に、穹は無言で校内へと向かった。
教室へと入ると、久しぶりに顔を合わせる者も居て、周りは騒がしい。夏休み中に旅行へと出掛けていた者は、お土産を渡していたりする。
穹と悠木も教室内へと入ると、「おっ久しぶり~!」と元気な声で、一人の女子生徒が目の前に登場して来た。
「おー久しぶり。てか黒っ!」
悠木は挨拶を返しながらも、こんがりと小麦色に焼けた肌に驚く。
ニコニコと満遍無い笑みで、小麦色に焼けた肌の元気な女子生徒は、片瀬マリ。同じく穹と同級生の、クラスメートだ。
三人共、二年B組。白井音苑は、D組だった。
最後に会った時に比べ、肌の色がこんがり日に焼けており、まるで別人に見えてしまう。穹も悠木と同様に驚くと、目をパチクリとさせた。
「片瀬って、ギャル系だったの?」
「違う違う~。夏休み中旅行行ったんだけど、日焼け止めちゃ~んと塗ったのに、焼けちゃったんだよねぇ~。今脱皮中!」
マリは腕の剥がれ掛けている皮を、指先で摘むと、ペリッと剥がし始めた。その光景に、穹は気持ち悪そうな顔をさせ、引き気味ながらに言う。
「ちょっ・・・目の前で皮剥かないでよ。」
「ああっ!これは失礼!」
明るい笑顔で謝るマリに、穹は相変わらず呑気な奴だ・・・。と思いながらも、軽く溜息を吐いた。
マリとは同じクラスになり仲良くなったが、いつも元気で、馬鹿みたいに明るい性格をしている。悠木とは同じ中学出身だが、中学の頃は今よりも、悠木と仲が良かったと言う訳では無いらしい。よく話す程度の仲だったが、高校に入り、同じクラスになってから、悠木とも穹とも、友達と呼べるまで仲良くなったのだ。その切っ掛けとなったのが、白井音苑の存在だった。
マリは一年の時に、白井音苑と同じクラスだった。クラス内で浮いていた音苑に気を使い、いつもの明るさで話し掛けたが、ガン無視をされてしまった苦い経験が有る。その事にいつまでも腹を立てていたマリは、二年になり穹が音苑と同じ中学出身だと知ると、何故か穹に文句を言って来たのだ。戸惑う穹の隣に悠木が居た事から、流れがいつの間にか思い出話へと変わり、気付けば三人は打ち解けていた。
「旅行って、何処行ってたんだ?」
ひ弱な穹の姿を、隣でクスクスと可笑しそうに笑いながら、悠木はマリに聞いた。するとマリは、スカートのポケットの中から二つ、キーホルダーを取り出すと、「なんくるないさ~!」と言いながら、二人の目の前に差し出す。
二人は差し出されたキーホルダーを見ると、シーサーがチェーンの下にぶら下っている。
「沖縄か。いいなぁ・・・。」
ボソリと穹が呟くと、マリは嬉しそうな笑顔を見せながら、シーサーのキーホルダーを二人へと手渡した。
「二人へのお土産だよぉ~。」
「あぁ・・・ありがと。」
困りながらも素直に受け取る穹とは裏腹に、悠木は露骨に不満そうな顔をさせる。
「お前お土産でキーホルダーって、最悪だぞ。しかもご当地シーサーとかって、もろ土産で使い道ねーし。せめてお菓子とかにしろよ。」
文句を垂れる悠木に、マリは少しだけムッとした顔をすると、腰に両手を当てた。
「貰えるだけでも、ありがた~いって思いなさい!食べ物は消耗品じゃん?消耗しちゃったら、思い出としての品が消えてしまう!私が沖縄へ行ったと言う思い出のお土産の、シーサーキーホルダーを貰ったと言う思い出が消えてしまう!」
得意気に説明をして来るマリに、悠木は呆れながらに言う。
「要するに、お前が沖縄へ行ったと言う思い出が、消えてしまうのが嫌なのか。」
「その通り!」
自信満々に頷くマリに、今度は穹が呆れながらに言った。
「別に写真とか撮ってるなら、いいんじゃないの?思い出はアルバムの中に残しなよ。」
マリはチッチッと軽く舌を鳴らすと、人差し指を二人の前に翳した。ニヤリと笑うと、また得意気に言って来る。
「分かってないなぁ~。身近な所に思い出の品を置く事で、ふとした瞬間それを見る事により、沖縄で過ごした日々をお手軽に思い出す事が出来るんだよぉ~。」
二人は互いに顔を見合すと、手渡されたシーサーキーホルダーを見つめた。マジマジと見つめると、改めて要らないお土産だと実感が湧く。
「俺付けねーし。」
「俺も・・・ちょっと付けないかな。」
二人の冷たい回答に、「ええぇぇー!」とマリは残念そうな顔をさせた。
「仕方が無いなぁ~。じゃ、自分の鞄にでも付けますかな~。」
そう言うと、マリはポケットの中からもう一つ、シーサーキーホルダーを取り出す。
「自分の分も買ってたんだ。」
「まぁね~。三人お揃いにしようと思ってさぁ~。」
嬉しそうに袋の中からキーホルダーを取り出しているマリの姿に、穹は少し申し訳ない様に思えて来てしまい、自分もと袋を破り始めた。すると悠木が、そっと穹の手からキーホルダーを取り上げ、「無理して合わせる事ねーし。」と溜息混じりに言う。
「いや・・・でもやっぱりせっかく貰ったんだし・・・。」
「三人お揃いでシーサーキーホルダーぶら下げてる方が、恥ずかしいんだよ。」
穹は苦笑いをすると、小さく頷き、悠木に取り上げられたキーホルダーを、ズボンのポケットの中へと仕舞った。
マリは袋からキーホルダーを取り出すと、パタパタと少し駆け足で、机の上に置きっぱなしにしていた鞄を取りに行く。鞄の取っ手の部分にキーホルダーを付けると、嬉しそうに二人に見せた。
「ほら!結構悪くないでしょ?」
鞄に付けられたシーサーキーホルダーは、想像以上に可愛らしさの欠片も無く、二人は絶句してしまう。
「やっぱり俺・・・付けないや。」
改めて穹が言うと、マリは又も残念そうな顔をさせた。
「寂しい事言うなぁ~。まぁ、捨てられなければいいけどさぁ~。」
「流石に捨てはしねーよ。ま、一応せっかく貰ったお土産だしな。」
悠木のその言葉を聞いたマリは、今度は嬉しそうな顔を見せた。
一気に機嫌が良くなった様子のマリは、ニコニコと笑顔で、「二人はどっか行ったの?」と聞いて来る。マリの質問に、それまで少し忘れ掛けていた嫌な思い出を、穹は思い出してしまう。
「あぁ・・・。俺は・・・夏休みは管弦楽部のコンクールだったから・・・。」
「あぁ~!そう言えば穹君って、管弦楽部だっけ?また予選落ちぃ~?」
当たり前の様に言うマリの言葉に、穹の顔は登校時以上に、暗く沈んでしまう。深い溜息を吐くと、ガックシと首をうな垂れた。
「あれ?落ち込んでるの?予選落ちしたの~。」
首を傾げながら尋ねるも、穹は無言で俯いたままだ。
「だから言っただろーが。真剣に受け取り過ぎ。うちの学校が毎年予選落ちしてんのなんて、皆知ってんだからさ。お前が落ち込む意味は無い訳。」
「あぁ~確かにうちの学校の管弦楽部には、誰も期待してないしねぇ~。」
とどめを刺す様にマリが言うと、穹は恨めしそうな顔で二人を睨み付けた。
「知ってるよ。誰も期待してない事位、知ってるけど・・・。やっぱ悔しいんだよ。」
今度は悠木とマリが顔を見合わせると、二人して肩を竦める。
「大変ですなぁ~。生真面目な性格だと、娯楽の一環として受け止める事が出来ないのかなぁ~?」
「てか、そんなに悔しいなら、来年お前が部長にでもなって指導し直したら?ちょっとは他の奴等も、上達するんじゃねーの?」
「いや・・・別にそこまでは・・・。」
今度は困った顔をしてしまう穹に、悠木は少し苛立ち始めてしまう。
「お前って本っ当!どっち付かず!革命起こす位の意気込みが有る訳でもねー癖に、やたらと悔しがるだけ悔しがって。本気で音楽に打ち込んでるのかも、よく分かんねーし!」
嫌味ったらしく言うも、穹は何も言い返そうとはしない。
「そんなに悔しいんだったら、もっと管弦楽が有名な高校に入ればよかったんじゃないの?穹君の腕前なら、推薦行けたでしょぉ~?」
マリにそう言われるも、穹は相変わらず黙ったままだ。只じっと床を見つめて、俯いていた。
悠木は軽く溜息を吐くと、仕方なさそうな顔をして言う。
「そうだったな。お前にこの話しても、ノーコメントだっけ。」
「ごめん・・・。」
ポツリと呟く様に謝ると、穹はチラリと視線を悠木の方へと向けた。一瞬その場に、重い空気が漂ってしまう。
「俺・・・ちょっとトイレ行って来る。」
「あぁ、早目に戻れよ。もうすぐ体育館に移動だからな。」
悠木は穹から視線を逸らして言うと、穹は小さく頷き、その場から逃げる様に教室を出て行った。
二人のやり取りを、不思議そうに首を傾げて見ていたマリは、穹同様、顔を沈めている悠木に尋ねた。
「何?私爆弾発言でもした~?何か暗黙の了解的な事でも、有ったとか?」
悠木は大きな溜息を吐くと、一気に体の力を抜き、机に腰掛ける。
「まぁな・・・。あいつに高校や部活の話ししても、ノーコメントって決まってんだよ。一年の時に、俺もお前と同じ事聞いたけど、理由教えてくんなかったし。」
「そうなんだ。じゃ~私、やっぱ爆弾発言しちゃったっぽいねぇ~。」
「別に爆弾発言って訳じゃねーよ。穹が答えないだけ。」
「ふ~ん・・・。」よくは分からなかったが、取りあえずマリは頷いた。
沈んだ顔を見せたままの悠木を、何とか元気づけようと、マリは話の流れを少し変えようとする。
「そう言えばさぁ~。穹君って、ヴィオラやってるよね~?何でメジャーなヴァイオリンじゃなくて、マイナーなヴィオラなの?つ~か、私的には差がよく分かんないんだけどねぇ~。アハハっ!」
無邪気な顔で笑って見せるが、悠木からはまた一つ、溜息が零れてしまう。
「それもノーコメントだって。ヴィオラの方が、ヴァイオリンよりも大きくて、音も五度位低いんだよ。」
どこか不機嫌そうに説明をする悠木に、「そうなんだぁ~・・・。」と、マリは苦笑いをした。
「何かノーコメントが多いねぇ~。穹君って、意外と秘密主義者だったりとか?」
「さぁ・・・。そうかもしれねーな。」
悠木は小声で呟くと、遠い目をしながら、穹の出て行った教室の出入口を見つめた。
穹とは長い付き合いと言う訳ではないが、学校の中では一番仲の良い友達なのは、確かだ。だが触れられたくない様な質問をすると、教えてくれた事は一度も無かった。教えたくない、と言うより、話したくない様な顔をし、いつも黙りこんで俯くばかりだ。きっとそれは、話す事で嫌な思い出でも、思い出してしまうからだろう。何となくそう思った悠木は、それからは無理に穹から聞き出そうとはしなくなったが、やはりどこか不満は有る。せっかく仲良くなった友達なのだから、何かを悩んでいるのならば、相談位はして欲しいと思っていた。
悠木には何となく、穹が話しを避ける原因は分かっていた。それはきっと、『白井音苑』が絡んでいるのだろう。彼女の姿を見る度に、穹の顔はいつも曇ってしまう。
「白井音苑の事を聞いても、ノーコメント・・・。」
ポツリと呟くと、また一つ溜息を吐く。そんな悠木の姿を見ていたマリは、クスリと小さく笑った。
「何だよ?」
ふとマリの方を向くと、マリは可笑しそうに笑っている。
「だって何かさぁ~。悠木って、穹君に恋してる乙女みたいなんだも~ん。」
「はぁ~?何だよそれ。気持ち悪い事言うなよ!」
マリの一言で、それまで沈んでいた悠木の顔は、一気に呆れた表情へと変わってしまう。
「てかどこのBLだよそれ・・・。」
「いやいやぁ~。だってよく二人でコンサートとかも見に行くし~。今も切なそ~うに、穹君の面影を見つめて・・・。これは腐女子ホイホイだよぉ~!」
クククッと不適に笑い、カラカウ様に言って来るマリに、悠木は口元を思い切り引き攣らせた。
「マジ止めろよ。マリ・・・お前そんな目で俺等の事見てたのか?だったらマジ止めろよな!」
「いやいや!私は腐女子では無いので、それはいよぉ~。でも実際に、恋する乙女みたいに見えたからさぁ・・・。」
そう言うと、一瞬笑顔が消え、悠木から視線を外した。「ちょっと嫉妬・・・。」と、悠木に聞こえない位小さな声で囁くと、再びニッコリと笑顔を見せる。
「まぁ、男同士の友情ってヤツですなぁ~!」
「はぁ?何だよそれ・・・。てか、俺のどこが乙女だっつーの!優柔不断の穹の方が、どっちかってーと乙女じゃん。」
膨れっ面でブツブツと文句を言う悠木の姿を、マリは可笑しそうに、ケラケラと笑った。
教室を出た穹は、肩を落としながら廊下をトボトボと歩いていた。廊下にはチラホラと生徒の姿が見られるが、殆どが教室の中に居る。
D組の前を通ると、チラリと視線を教室内へとやる。ざっと教室内を見渡すと、音苑の姿が無い事に、どこか安心をしてしまう。きっと自分の姿を見たら、音苑は話し掛けて来るだろう。音苑は穹の姿を見付ける度に、話し掛けて来る。穹はそれが、嫌で仕方が無かった。
廊下にも音苑の姿が無く、安心した様子でトイレの前まで行くと、トイレには入らず、そのまま通り過ぎて行く。奥へと進み、階段まで行くと、一つ階段を下りて窓辺で立ち止まった。
穹達二年生の教室が有る三階と、一年生の教室が有る二階の間を繋ぐ階段。その折り返し地点のスペースの窓辺は、壁全体が大きな窓ガラスになっているので、外の様子がよく見える。ここは穹のお気に入りの場所だ。
校舎角の階段のせいか、余り人も来ない為、一人ボーっと外を眺めていたい時には、打って付けの場所だった。たまに悠木と二人で、昼休みをこの場所で過ごす事も有る。二年になってからは、マリも加わった。別に秘密の場所、と言う訳では無かったから。
大抵穹が沈んだ顔をして、「トイレ」と言う時は、この場所に行くと言う合図だ。少し一人になりたい、と言う合い言葉の様な物。悠木もその事は心得ている為、緊急の用事が無い限りは、その時はこの場所へは来ない。マリもその事は知っている。悠木から教えられたのだが。
穹は窓辺に凭れ掛り、ボーっと外を見つめていると、大きな溜息を吐いた。
「どっち付かずか・・・。」
ポツリと悠木に言われた言葉を呟くと、確かにその通りだと自分でも思ってしまう。と言うより、悠木に言われた言葉は正直図星だった。
実際にこの学校の管弦楽部に、革命でも起こそうと思っている程、熱意は無い。それでも予選落ちをした事が悔しいのは、音楽への情熱が有るからだろう。だからと言って、将来音楽で食べて行こうと言う事は、余り考えてはいなかった。
「本当だ・・・どっち付かずだ・・・。」
改めて中途半端な自分に気付くと、自然とまた溜息が零れてしまう。
すると突然、後ろから「何がどっち付かずなの?」と、聞き覚えの有る声がした。穹はその声により、一気に眉間にシワが寄ると、恐る恐る後ろを振り返る。そこには柔らかい笑顔で立っている、音苑の姿が有った。
「音苑・・・。」
暗く沈んだ声で名前を言うと、音苑はニッコリと微笑み、穹の隣へと立つ。
「今年も予選落ちしちゃったんだってね。残念だったね。」
優しい口調で言って来る音苑から、穹は顔を背けた。黙り込み、何も話し返さない穹だったが、音苑はそんな事は気にせずに、また笑顔で話す。
「せっかく穹が、舞台に上がれたのにね。本当は一年の時も、舞台に上がれるはずだったのに、どうして穹はワザと下手な演奏をしたの?一年生だったから、遠慮でもしたのかしら?」
穹は音苑に背を向けたまま、小さい声で尋ねた。
「どうしてお前が・・・そんな事知ってるんだよ・・・。」
すると音苑は、満遍無い笑みで嬉しそうに答える。
「穹の事だからよ。穹の事なら、何でも知ってるわ。舞台の上で、弾いている振りをして、本当は弾いていなかった事も。」
「見に来てたのか・・・?」
驚いた顔をして音苑の方を向くと、音苑は笑顔で頷いた。
「演奏中、ずっと穹の事見てたから。ずっと、ずっと・・・穹だけを見ていたから。後で怒られたでしょ?だから落ち込んでいるのよね。穹が演奏に加わったら、それこそ穹のせいで予選落ちになっちゃうから、気を使って演奏しなかったのにね。可哀想な穹。」
そう言ってクスリと笑う音苑を、穹は険しい顔で見つめた。
音苑の言う通り、穹はコンクールで演奏をしている振りをしていた。周りに合わせて演奏をしても、自分の音だけがどこかで目立ってしまったら、自分のせいで落ちてしまうと不安を感じたからだった。
「穹は上手だもの。穹からしたら、他の部員なんて素人だものね。」
クスクスと可笑しそうに笑う音苑に、穹は低い声で言った。
「音苑の方が・・・上手い癖に。」
音苑の笑い声がピタリと止まると、「そうね・・・。」と小さく呟く。そしてゆっくりと、穹のすぐ側へと寄ると、そっと手を握った。
「弾けたら、私の方が上手よね。」
そう言うと同時に、握った手を力強く握り締めた。余りの強さに、穹の顔は痛みから歪んでしまう。音苑はクスリと笑うと、そっと手を離した。
穹は少し赤くなった手を胸元にやり、痛そうに軽く摩ると、顔を俯かせるだけで、何もやり返したり、文句を言ったりもしない。そんな穹の態度を、面白くなさそうな顔で見つめていた音苑は、クスッと不適な笑みを浮かべた。
「ねぇ、穹。私穹に聞きたい事が有るの。」
穹はゆっくりと顔を上げると、笑顔を見せる音苑の顔を、不安気に見つめる。
「どうして穹は、私の事避けるの?」
「それは・・・。」
口籠る穹に、音苑は満遍無い笑みをし、明るい口調で言って来た。
「私達、中学ではずっと一緒に、仲良くヴィオラを弾いていたじゃない。高校でも、中学の時みたいに仲良くしましょうよ。」
「それは・・・出来ないよ・・・。」
音苑とは対照的に、暗く沈んだ声で言う穹。そんな穹に、音苑は更に笑顔で言って来る。
「どうして?だったらどうして、穹は私と同じ高校に入ったの?推薦を蹴ってまで。」
穹は口を閉ざし、何も答え様とはしなかった。しかしそんな事等気にせず、音苑は更に言う。
「どうしてこんな微弱な管弦楽部に入ってまで、まだ弾いているの?こんな高校で、ヴィオラを弾くの?」
俯く穹に、音苑はクスリと笑うと、そっと耳元で囁いた。
「本当に、穹はどっち付かずね。」
音苑の声が耳元で聞こえた瞬間、穹は一瞬背筋がゾッとし、慌てて後ろへと体を引いた。笑顔でこちらを見つめる音苑の姿に、寒気を感じてしまうと、唇をグッと噛み締め、勢いよく階段を駆け上がった。
これ以上、音苑と二人きりで居る事が耐えきれず、穹はまた逃げる様に、一直線に教室へと走って戻る。
音苑は笑っているけれど、笑ってはいない。憎んでいる、憎んでいる、憎んでいる、憎んでいる・・・。そんな事が頭の中をグルグルと回り、どうしようもなく胸が絞め付けられた。
息を切らせながら教室へと戻ると、既に皆体育館へと移動をしてしまったらしく、教室内には誰も居なかった。今から遅れて体育館に行く気にもなれず、教室内へと入ると、自分の席へと座った。グッタリとした様子で机に顔を伏せると、またグッと唇を強く噛み締める。
「本当は・・・避けちゃ駄目なんだ・・・。」
声を殺しながら呟くと、自然と零れて来そうな涙を、グッと堪えた。
しばらく机の上に顔を伏せていると、ザワザワと騒がしい声が遠くから聞こえて来た。その声は徐々にと近づいて来る。皆が体育館から、戻って来たのだろう。
ガラッと言うドアを開ける音が聞こえると、「疲れたー。」「マジ長かった・・・。」等と文句を言う、様々な声がする。皆校長やらの長ったらしい挨拶に、うんざりとした様子だ。
穹はゆっくりと顔を上げると、目の前にムッとした顔で睨み付けて来ている、悠木の顔が飛び込んで来た。
「あ・・・。」と声を漏らすと、「あ、じゃねーよ!」と悠木に頭を、バシッと叩かれてしまう。
「お前何サボってんだよ!サボるんだったら俺も誘えよな!」
怒り気味で言って来る悠木に、穹は申し訳なさそうに、頭を掻き毟りながら苦笑いをした。
「いや・・・戻ったらもう既に皆居なくて・・・。後から行って目立つのも嫌だったから。」
「てか、いつまで黄昏てたんだよ。」
「ごめん・・・。」
「ハハハ・・・。」と苦笑いをしていると、ドアからマリが勢いよく入室し、一直線に二人の元へと掛けて来た。
「ちょっとちょっとちょっとぉ~!」
慌てた様子で二人の元に来ると、ガッシリと、穹と悠木のそれぞれの片方の肩を掴む。そして額に汗を滲ませながら、真剣な口調で尋ねた。
「古典の試験範囲が変わったって、本当?」
「は?」
悠木は首を傾げると、真剣な眼差しで見つめて来るマリを、不思議そうに見つめ返す。
「て・・・休み中委員長から連絡来たけど。片瀬の所にも連絡来たでしょ?」
キョトンとした顔で穹が言うと、マリの顔も、キョトンとしてしまう。
「え?私来てない。つ~か、さっき麻美から聞いた。」
「麻美って、A組の仲田麻美?俺んとこにも連絡来たよ。お前留守だったんじゃねーの?親から伝言とか聞いてねーの?」
「え?悠木のとこにも?え?私お母さんからも何も聞いて無い。え?え?え~!」
マリは両手で頭を抱えると、雄叫びの様に叫び始めてしまう。
「嘘嘘嘘ぉ~!私だけ知らなかったのぉ~?つ~か私だけ連絡ミス~?嫌ああぁぁ~!どうしようっ!只でさえ勉強してないのにっ!つか委員長!委員長はどこだぁ~!よくも私を陥れたなぁ~!」
勢いよく教室を見渡し、委員長の姿を探し始めるマリ。しかし幾ら見渡しても、委員長の姿は見当たらない。
騒いでいるマリに、近くにいたクラスメートが、「委員長なら、今日休みだよ。」と言うと、マリはガックシと首をうな垂れた。そしてグッと拳を握り締めると、恨めしそうな声で言う。
「己・・・逃げたな。私への連絡ミスに気付き、逃げたなぁ~。」
「いや・・・普通に病欠とかでしょ。でも本当に、片瀬の所だけ連絡来なかったの?」
少し引き気味ながらも穹が尋ねると、マリは勢いよく顔を上げ、自信満々に答えた。
「来なかった!つ~か、留守電にも入って無かった!」
「うわぁ~・・・お前運悪いなぁ~。」
憐れむ様な目で、悠木はマリを見た。するとマリは、目をキラキラと輝かせ、何かを期待する様な顔をして、悠木に言う。
「そう言えばぁ~。悠木って、古典得意だったよねぇ~?」
マリの言わんとする事を、すぐさま悟った悠木は、透かさずマリの目の前に手を翳す。
「教えねーから。範囲は教えても、勉強までは教えねーからな。」
「うっそ!冷た~い!」
頼む前に断られてしまい、不満を爆発させる様に机をバンバンと叩いた。
「てーか今から勉強したって、殆ど一夜漬けじゃねーか。普段から勉強して無い方が悪い。諦めた諦めた。」
「更に冷たい~。」
軽く悠木にあしらわれ、ムッと頬を膨らますと、マリは拗ねてしまう。流石に少しマリが可哀想だと思った穹は、「俺が教えようか?」とも言うが、悠木に「甘やかすな。」と叱られてしまう。
「穹はお人好しなんだよ。何でもかんでも、人の世話焼いてたら切りがねーし。」
「いや・・・でも流石に試験範囲変わった事知らなかったのは、少し不利だし。可哀想だし・・・。」
「優しいねぇー穹は。でもこいつの場合、普段から勉強してないから自業自得も有る訳。お前の優しさは勿体ねーよ。」
そう言うと、悠木はムッとした顔で軽くマリを睨んだ。
「アハハ・・・。」マリは頭を掻きながら苦笑いをすると、図星を言われ困ってしまう。
「まままぁ~。取りあえず、範囲教えてよ。ね?」
悠木は深い溜息を吐くと、「分かったよ。」と自分の席へと向かった。
悠木は席に座ると、鞄の中からノートとペンを取り出し、試験範囲のメモをした紙を、ノートに書き写し始める。その姿を見たマリは、小さく溜息を吐いた。
「アハハ・・・失敗しちゃったぁ~。」
少し悲し気な表情で、小さく笑いながら言うと、穹は不思議そうに首を傾げる。
「失敗って?」
「本当は試験範囲変わったの、知ってるんだよね~。夏休み中家族と旅行行ってたから、全然悠木と遊んでやれなかった穴埋めしたかったのになぁ~・・・。穹君も部活が忙しくて、悠木と全然会ってなかっただろうし。中々上手く行かないもんなんだねぇ~。」
そう言って、愛おしそうに悠木を見つめるマリの姿に、穹は「あぁ・・・。」と気が付いた。クスリと小さく笑うと、優しい口調でマリに言う。
「ああ見えて、あいつ結構成績良いからね。勉強を教えて貰う口実は中々いいけど、それって、試験の結果が出た後でもいいんじゃない?酷い点数取っちゃったから、教えてってさ。」
「む~?それは私が酷い点数を取る事前提の話し~?そっちのが酷いぞぉ~!」
両頬をプクリと膨らませ、不満気に言うマリの顔を見て、穹は可笑しそうにクスクスと笑った。釣られてマリも、可笑しそうにクスクスと笑い始めてしまう。
マリはニッコリと微笑むと、そっと穹の耳元に手を翳し、小声で話した。
「悠木には内緒だよ。私が嘘吐いた事。」
「お礼に何くれるの?」
クスクスと笑いながら穹が言うと、マリは驚いた顔をしながらも、悲しそうに叫んだ。
「酷い~!最近穹君、悠木に似て来たぁ~!見返りを求めるなんてぇ~!」
「ごめんごめん、冗談だよ。ちゃんと内緒ね。」
穹は笑いながらも言うと、マリはパタパタと、軽く穹の頭を叩いた。「ちゃんと内緒にするから。」と何度も言うと、ようやくマリは叩くのを止め、少し拗ねた様子で頷く。
穹は人差し指を口元に翳すと、柔らかい笑顔、を見せ、マリに小声で言った。
「ついでに、悠木の事好きなのも、内緒ね。」
穹の言葉を聞き、マリの顔は思わず驚いてしまう。照れ臭そうに頭を掻き毟ると、コホンッとワザとらしい咳を吐いた。
「穹君のお人好し~。」
プイッと顔を背けて言うと、悠木と同じ言葉をマリにも言われてしまい、穹は「ハハハ・・・。」と、苦笑いをしてしまう。
二人が騒いでいると、「何遊んでんだよ。」と、試験範囲を書き写した紙を持った、悠木が戻って来た。
悠木は不可解そうな表情を浮かべながら、「ほい。」とマリに紙を手渡すと、マリは「あぁ~サンキュ~。」と、慌てて受け取る。
「で?何騒いでたんだよ?」
改めて悠木に聞かれ、二人は互いに顔を見合わせると、困った表情を浮かべた。
「いやぁ~最近穹君が、悠木に似て来てがめついなぁ~って~。」
苦笑いをしながらマリが言うと、「ちょっ!」と穹は慌ててしまう。
「がめつくないよ!」
「俺もがめつくねーし!」
穹に続いて悠木まで、ムッとした表情で言うと、マリは更に苦笑いをする。
「あれぇ~?私何か間違えた?つ~か、地雷踏んじゃったっぽい~。」
パタパタと慌てて、マリはその場から逃げて行ってしまうと、悠木は不思議そうに首を傾げた。
「何だ?あいつ・・・。それより穹。今日もう学校終わりだし、帰りどっか寄って行かねー?」
「あー・・・ごめん。俺ちょっと部室に寄ってから帰るから。」
申し訳なさそうに穹が断ると、悠木はつまらなさそうな顔を浮かべた。
「何で?集合掛かってるとか?」
「そうじゃなくて・・・。ヴィオラ、学校に置きっぱなしにして有るから、取りに行くんだ。」
「だったら待ってるよ。」と悠木が言うも、穹は困り顔で、「いや・・・。」と口をモゴモゴとさせている。ハッキリと言わない穹に、悠木は呆れながらに溜息を吐くと、仕方なさそうに頷いた。
「分かった。一人で演奏したいって所か?まぁー・・・それで少しは気持ち晴れるなら、いいんじゃねーの。」
「ごめん・・・。」
「いいよ。」悠木がその場から離れようとすると、穹は「悠木!」と慌てて呼び止めた。
「ありがとう・・・。その・・・いつも分かってくれて。俺の気持ち・・・。」
悠木は軽く息を吐くと、ニッコリと微笑んだ。
「友達だからな。その変わり、いつかちゃんと俺の質問に、全部答えろよ。はぐらかすの無しで。」
穹のニコリと微笑むと、大きく頷く。
「うん。いつか・・・ちゃんと全部話すよ。今日は片瀬とでも一緒に帰りなよ。」
「はぁ?何で急にマリが出て来るんだよ?」
突然の穹の言葉に、悠木は一気に拍子抜けしてしまう。
意味が分からないながらも、チラリとマリの方を見ると、一人で帰るのも何だし と思い、仕方なさそうに頷いた。
「ま、どうせ方向一緒だしな。」
悠木はマリと一緒に帰る事にし、二人は穹に「また明日。」と別れを告げると、教室を後にした。
穹は二人を見送ると、少し良い事をした様な気持ちになり、心成しか落ち込んでいた心も、少し晴れやかになった気がした。
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