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 職員室で顧問の教師から、部室の鍵を借りると、別館の二階に在る部室へと向かう。部室へと行くと、流石に休み明け試験が待っているだけの事も有り、誰も居ない。部室内に限らず、午前中で終わった校内に、残っている生徒は殆ど居なかった。  部室内の壁は、一応防音設備になっていた。形だけはしっかりとしているが、肝心の中身の部員達は、殆どが高校に入ってから始めた者ばかりだ。音苑の言う通り、素人の集まりだった。それでもこの高校の管弦楽部に入ったのは、この防音設備が有ったからだ。  穹は楽器が納められている棚の鍵を開け、自分のヴィオラを取り出すと、ケースを開けた。ケースの中に納められているヴィオラは、綺麗に手入れがされている。長年穹が使い続けている、愛用のヴィオラだ。  そっとヴィオラの銅を手で優しく撫でると、ケースの中から取り出した。ヴィオラを左肩に乗せ、顎で固定すると、左の指先で弦を押さえる。ふう・・・と軽く息を吐き、右手に弓を持つと、そっと弦の上に翳し、ゆっくりと弾き始めた。  誰も居ない部室内に、ヴィオラの穏やかな音色が静かに響き始める。曲目はアドルフ・アダン作曲、『ジゼル』第二幕グラン・パ・ド・ドゥ。穹が一番嫌いな曲だ。  嫌いな曲だからこそ、誰も居ない防音壁の部室で、一人で弾く。誰にも聞かれない様に練習をする為に、今の部に入った様な物だった。  目を伏せ、ゆっくりと弓を弾いていると、徐々に曲調は早くなり、軽やかになって行く。夢中で弾いていると、突然ドアの方から、ガタッと大きな物音がした。  ハッとし、慌てて穹は演奏を止めドアの方を見ると、ドアから背の小さな女子生徒が、そっと覗き込んでいる姿が有った。 「あ・・・ごめんなさい。」 「有賀さん・・・?」  穹は肩からヴィオラを下ろすと、ドアの方へと近づいた。 「どうしたの?有賀さんも、楽器取りに来たの?」 「え?あっ・・・はい。その・・・そうです。」  室内へと入ろうとせずに、ドアの後ろに隠れたまま返事をする。  小柄なこの女子生徒は、有賀由香里。穹と同じ管弦楽部の一年生で、穹の後輩だ。穹と同じヴィオラ担当だが、高校へ入ってから始めた為、全くの素人だったが、小さい頃からピアノをやっていた。  穹は中々室内へと入ろうとしない由香里を不思議に思い、少し開いたドアを大きく開けると、ニッコリと微笑み手招きをする。 「入ったら?自分の部室なのに、遠慮する事ないんじゃない?」  由香里は小さく頷くと、恐る恐る部室内へと入る。ゆっくりとドアを閉めると、目の前に立つ穹に、再び謝り始めた。 「あの・・・ごめんなさい。邪魔・・・してしまったみたいで。」 「え?」  不思議そうな顔で由香里を見ると、由香里は少し頬を赤く染めながら言う。 「その・・・とても真剣に練習をしていたみたいだったので・・・。中々入れなくて。」  由香里の言葉に、穹の笑顔は自然と消えてしまった。 「俺・・・そんなに真剣そうだった?」 「はい。それに・・・それに、とっても綺麗な音色でした。やっぱり先輩は、上手ですね。」  そう言って、嬉しそうに由香里は微笑むが、穹の表情は優れない。  穹は誤魔化す様に、頭を掻きながら作り笑いをして言った。 「あぁー・・・何かごめんね。入りづらくさせちゃってたみたいで。今日は誰も来ないと思ってたから。棚の鍵開いてるよ。」 「あ、はい。」  由香里は軽くお辞儀をすると、棚へと向かい、自分のヴィオラを取り出す。穹も棚の方へと行くと、近くに置いたケースの中に、ヴィオラを仕舞った。 「あれ?先輩、もう練習はしないんですか?」  ヴィオラをケースに仕舞う穹の姿に気付き、尋ねると、穹は冴えない笑顔で頷く。 「あぁ・・・うん。今日はもう帰ろうと思って・・・。ほら、試験もすぐあるし。」 「あの・・・もしかして、私が邪魔してしまったせいで     。」 「あぁー違うよ!別に、有賀さんのせいじゃないから。大丈夫だよ。」  申し訳なさそうな顔をする由香里に、穹は慌てて言葉を遮り言った。しかし由香里は、また穹に謝り始めてしまう。 「あの、本当にごめんなさい。時谷先輩が一人で練習している時って、いつも真剣なので邪魔しない様にしていたんですが・・・。今日はいつもより、綺麗な音が出ていたなって思って、思わず聴き惚れてしまっていて・・・私・・・。」 「え?いつも・・・て?」  不思議そうな顔をする穹に、由香里はハッと自分の失言に気付き、アタフタと慌てだしてしまう。 「あっ、いえっ!そのっ・・・。時谷先輩、よく一人で残って練習していたので。何て言うか・・・。」  穹はハッと、由香里の言わんとする事に気付くと、恥ずかしさから顔が少し赤くなってしまった。 「え?もっもしかして、その・・・いつも聴いてたの?俺が一人で弾いてる時・・・って・・・。」 「ごっごめんなさいっ!盗み聞きしていた訳では無いんですが、あんまり綺麗な音色だったので。とっ時谷先輩も、内緒で練習している様だったので・・・そのっ!」  由香里は口籠ってしまうと、顔を真っ赤にさせ俯いた。穹も口籠り、恥ずかしそうに俯くと、二人して顔を赤く染めながら黙り込んでしまう。  しばらく二人の間に沈黙が続くと、穹は視線を由香里から外したまま、ポツリと言った。 「あの・・・誰にも言わないでね。」  すると由香里は、勢いよく顔を上げ、真剣な眼差しで力強く訴えた。 「言いません!絶対に言いませんから、大丈夫です!これは私の秘かな楽しみでも有りますからっ!」  興奮気味に言って来る由香里に、穹は驚きながらも、後退りをしてしまう。 「あ・・・あぁ・・・。ありがとう。って・・・楽しみって・・・。」  由香里はまた自分の失言に気付くと、「いえっ・・・その・・・。」と、又顔が真っ赤に染まってしまう。 「ああっ!もう帰るんでしたら、私が鍵、返しに行って来ます。」  誤魔化す様に由香里が言うと、穹はクスリと小さく笑い、肩の力を抜いた。 「いいよ。俺が返しに行くから。内緒にしてくれるお礼。」 「お礼なんて、そんなっ!先輩に行かせる訳にはいきません。後輩の私が行くべきなんですから。これは後輩の仕事です。」  由香里は慌てて真剣な表情で言うと、穹は少し困ってしまう。「う~ん・・・。」と少し考えると、「じゃあ、一緒に返しに行こうか。」と提案をした。  「はいっ!」由香里は嬉しそうに頷くと、二人は棚と部室のドアの鍵を閉め、職員室へと鍵を返しに行く。  職員室を出ると、二人してヴィオラのケースを持ち、下駄箱へと向かう。その途中、何度も由香里の小さな溜息が聞こえて来た。  「どうかしたの?」と、不思議に思い穹が尋ねるも、由香里は「いえ・・・。」と俯くばかりで、中々話そうとはしない。その光景に、一瞬自分と悠木とのやり取りが重なってしまう。  中々ハッキリと言おうとしない由香里に、少し苛立ちを感じてしまった穹だったが、悠木はいつも、こんな気持ちを感じているのだろうか。そう思うと、悪い事をしてしまっている。自分のハッキリしない態度に、悠木は何度も苛立ったのだろう。それでも責めたり怒ったりしないのは、悠木の優しさなのだと思うと、改めて良い友人を持った事に、感謝してしまう。  今度何か聞かれたら、ちゃんと話そう     。そう決意すると、隣でもどかしそうにしている由香里に、優しく話しかけた。 「何か悩んでるんだったら、話した方がスッキリするよ。まぁ・・・俺でよければ・・・だけど。」  すると由香里は、一瞬チラリと穹の顔を見ると、俯きながらも話し始めた。 「いえ・・・その・・・。時谷先輩は、昔からヴィオラをやっているんですよね?」 「え?あぁ・・・うん。昔って言っても、小学校中学年位の時からだけどね。」 「そうですよね。あんなに上手ですし・・・。」  そう言うと、ハァ・・・と溜息を漏らす。 「それがどうかしたの?」  首を傾げながら尋ねると、由香里は方手に持っていたヴィオラを、両手で抱えた。 「私・・・正直ヴィオラって、向いていないと思うんですよ。元々ずっとピアノをやっていましたし・・・。やっぱり、昔からやっているピアノに戻そうかどうか・・・悩んでいて・・・。」 「あぁ、有賀さんって、小さい頃からずっとピアノやってたんだっけ。じゃあ何で、高校に入って急に変えちゃったの?」  すると由香里は、両手で抱えたヴィオラをギュッと抱きしめ、照れ臭そうに頬を染めた。 「そっそれは・・・。中学の時、コンクールで凄く綺麗な人が、ヴィオラを弾いているのを聴いたんですよ。その音色が凄く素敵で・・・。それで、この高校は始めての人が多いと聞いたので、私もやってみたいと思ったんです。」 「へぇ~、それでヴィオラに挑戦してみたんだ。よっぽど綺麗な音色を奏でてたんだね、その人は。」  ニコヤカな笑顔で穹が言うと、由香里は恥ずかしそうに頷いた。しかしその後、又小さく溜息を吐くと、抱きしめていたヴィオラを方手に持ち戻す。 「でも実際にやってみると、楽譜が複雑で難しくて・・・。それに、私小柄じゃないですか?ヴィオラって弓も重いし、支えるので精一杯と言うか・・・。」 「そっか・・・。大きさは、ヴィオラでも色々有るから、小さいのを選べばいいと思うんだけど・・・。楽譜はピアノやってたなら、すぐに覚えられると思うよ。最初はちょっと違和感感じちゃうだろうけど。弓を弾いて音を出す事事態は、結構初心者でもすぐ出来ちゃうし。」  穹なりにアドバイスをするも、由香里からは溜息しか聞こえない。 「同じ弾くでも、ピアノとヴィオラでは全然違います。ヴァイオリンからヴィオラに持ち替えをする人はよく聞きますが、やっぱりピアノから・・・は、少ないですよね。」  そう言うと、大きな溜息を吐いた。 「私もあんな素敵な音色を出したいと思っていたんですが・・・。でも、管弦楽部に入ったら、同じ様に素敵な音色を奏でている時谷先輩が居て、もう少しやってみようかとも思ったんですよ。」  ニッコリと微笑み穹の方を向くと、穹は照れ臭そうに由香里から視線を逸らした。 「そんな・・・俺は別に。」  恥ずかしそうに頭をポリポリと掻いていると、由香里は嬉しそうに更に言って来る。 「始めて一人で練習をしている、時谷先輩の演奏を聴いた時は、驚きました。普段の部活動中とは全然違って・・・。私が中学の時に聴いた音色に似ていて、それに曲目も同じでしたので、内緒でよくこっそり部室の外で聴いていたんですよ。防音壁でも、すぐ近くなら聴こえちゃいますから。」 「え?曲目も?」  少し驚いた表情で穹が聞くと、由香里は嬉しそうにニッコリと笑い、頷いた。 「はい。今日も弾いていた『ジゼル』です。先輩、あの曲が好きなんですか?」  穹は一瞬顔を曇らせると、「いや・・・。」と顔を背けてしまう。又黙り込んでしまいそうになると、素直に話してくれている由香里に、悪い様な気がしてしまい、穹も素直に話そうと思った。 「本当は・・・。本当は、好きじゃないんだ、あの曲。」  悲しげな笑顔を見せて言うと、由香里も少し悲しい表情になってしまう。 「どうして・・・ですか?あんなに練習をしているのに。」  穹は小さく笑うと、由香里から視線を逸らした。 「俺のせいで、ヴィオラが弾けなくなっちゃった子が居てさ。その子が好きだった曲なんだ。だから俺は・・・好きじゃないんだ。」 「先輩のせいで・・・?」  ポツリと由香里が呟くと、再び二人の間に沈黙が訪れる。 「なら、どうして弾いているんですか?毎日の様に・・・。」  今度は由香里の方から口を開くと、穹は俯いたまま静かに答えた。 「その子の変わりに・・・弾いてるのかな・・・。」  隣を歩いていた由香里は、突然ピタリと足を止めた。穹は不思議そうに後ろを振り返ると、由香里は茫然と佇んでいる。「どうかしたの?」と聞くも、由香里は何も返事をしない。  穹が由香里の側まで行こうとした瞬間、ゆっくりと由香里は口を開いた。 「それって・・・。白井・・・先輩・・・?」  今にも消えそうな小さな声で、由香里の口から出た名前に、穹は一気に青褪めてしまう。ゆっくりと由香里から離れて行くと、勢いよくその場から走り去ろうとした。とっさに由香里は穹の腕を掴むと、「待って!待って下さい!」と、逃げようとする穹を引き止める。 「違います!ちゃんと分かっていますから!私、知っていますから、大丈夫です!だから逃げないで下さい!」  声を張り上げ、必死に穹に訴えると、穹は驚いた顔で後ろを振り返った。 「え・・・?知ってるって・・・?」  由香里は掴んだ腕を、ギュッと強く握ると、穹の目を真っ直ぐに見つめて言った。 「私が中学の時にコンクールで見た人は、白井音苑先輩じゃ有りません。その人は男の人だったから!違う人なので、大丈夫ですよ。私、その人から聞いたので、知ってるんですよ。」 「男の人・・・?それって・・・。」  由香里はそっと掴んだ腕から手を離すと、優しく微笑んだ。  穹は体の力が一気に抜け、ゆっくりと体を由香里の方に向ける。茫然としてしまうと、優しい笑顔を見せる由香里に、恐る恐る尋ねた。 「知ってるって・・・。音苑が・・・弾けなくなった理由を・・・?」  由香里は小さく頷くと、優しい口調で話し始める。 「きっと、時谷先輩も名前を知ってると思いますが・・・。私がコンクールで見た人は、白井音羽さん。私がこの高校に入学する事が決まった時、ヴィオラの事を音羽さんに相談したんです。私、別に将来プロの音楽家になろうとか、思っていなかったので。趣味程度でしたし。だからせっかくなら、新しい楽器に挑戦したいなって思って。」  由香里から出た名前を聞いた穹は、唖然としてしまう。 「白井音羽・・・って。音苑の・・・双子の兄の?」  由香里はニッコリと笑うと、嬉しそうに頷いた。 「はいっ!私のピアノの先生が、偶々音羽さんのヴィオラの先生と友達同士で、先生にお願いして会わせて貰ったんです。コンクールでの時の演奏が、素晴らしかったって伝えたかったし。それで私も、ヴィオラをやってみようと思っている事を話して。楽器選びのアドバイスとかをして貰ったんです。その時に、この高校に入学する事を伝えたら・・・。」  それまで嬉しそうに話していた由香里の顔は、少し暗く沈んだ。そして言い難そうに、続きを話した。 「そしたら・・・双子の妹さんが居ると聞いて。その・・・もし校内で見掛けても、絶対に関わらない様に・・・忠告の様な事をされたんです。特に・・・ヴィオラを始めるならって・・・。私よく意味が分からなくて、理由を聞いたら・・・。」 「頭がオカシイからって・・・言われた?」  由香里の変わりに穹が言うと、由香里は無言で頷く。そして声を震わせながら言った。 「その・・・。自分で・・・弓で腕を・・・。」  穹は眉間にシワを寄せると、グッと唇を噛み締める。辛そうな顔をする穹に気付いた由香里は、ニッコリと笑顔を見せ、明るい口調で言った。 「そっその時、自分の馬鹿な発言のせいでそうなったって思い詰めて、馬鹿みたいに毎日変わりに弾いている、馬鹿が居るからとも聞いたんです。名前までは聞いていなかったので、時谷先輩だとは分からなかったですけど。」  すると穹は少し困った顔をして、クスリと小さく笑った。 「馬鹿馬鹿って・・・連発されまくってるね。」 「あっ!ごっごめんなさい!別に私っ!そのっ、音羽さんが・・・。」  慌てて由香里は謝ると、穹はクスクスと更に笑う。 「違うよ。有賀さんに言ってるんじゃなくて・・・。音羽の奴が、馬鹿を連発し過ぎって。」 「あ、時谷先輩も、音羽さんの事知ってるんですね。」 「あぁ・・・。三人・・・同じ中学だったから。」  そう言うと、それまで笑っていた穹の顔は、無表情に変わってしまう。その姿に、由香里も又沈んでしまうと、少し間を置いてから真剣な眼差しで言った。 「あの・・・。私も、時谷先輩のせいだとは思いません。私は聞いただけなので・・・余り偉そうな事言えませんが、時谷先輩が思い詰める事は、無いと思います。」  穹は悲しげに微笑むと、「ありがとう。」と小さく言った。 「でも・・・やっぱり俺のせいでも有ると思うから・・・。有賀さんは、ピアノに戻した方がいいよ。」  そう言うと、ゆっくりと歩き出し、振り返る事無くその場から去って行ってしまう。 「先輩・・・。」  由香里は寂しそうな瞳で、穹の背中を見送るだけで、それ以上は何も言えず、追い掛ける事も出来なかった。  夜の人気の無い公園。住宅街から離れ、海に面した小さな公園内に、静かにヴィオラの音色が響いていた。風に乗って音色は海まで届きそうな程、しなやかな音を奏でている。ゆっくりと弓を弾き、最後の音を柔らかく伸ばすと、そっと弦から弓を離した。  閉ざした瞳を開け、海を見つめると、音が反響して少し帰って来る。その音を、切なげに音苑とそっくりの顔をした、白井音羽は聞く。  音羽は肩からヴィオラを下ろすと、ジッと海を見つめた。波の静かな音が、とても心地よく感じる。 「まだここで弾いてるんだ。」  後ろから聞き覚えの有る声が聞こえて来ると、音羽は振り返る事無く言う。 「聴いてたんだ。珍しいね、穹がここに来るなんて。」  そう言った後、ゆっくりと後ろを振り返った。  私服に着替え、ヴィオラの入ったケースを持ち立っている穹。穹はゆっくりと音羽の元まで近づくと、すぐ側のベンチに置いて有る音羽のケースの隣に、自分のケースも置いた。音羽はチラリと、穹のケースに視線をやる。 「穹も弾きに来たの?」  無表情で音羽が尋ねると、穹は小さく首を横に振った。 「そう。僕とは弾きたく無いよね。音苑と弾いてるみたいだから。」 「そう言う意味でじゃないよ。もう今日は弾いたから・・・。」  少しムッとした表情で言うと、「そう。」と音羽は一言だけ言う。 「俺の事、馬鹿って連発し過ぎ。」  ボソリと穹が言うと、音羽は不思議そうに首を傾げた。何の事はよく分かっていない音羽に、穹は更に顔をムッとさせ、由香里の事を話した。すると音羽は、「あぁ。」と思い出す。 「由香里ちゃん、やっぱり合わなかったんだ。そうだろうね。体小さいし。」 「そうじゃなくて。馬鹿って連発し過ぎ。俺そんなに馬鹿じゃないし・・・。」  不貞腐れた顔で穹が言うも、音羽は表情を変える事無く言い返す。 「穹は馬鹿だよ。僕と同じ高校に入ればよかったのに、わざわざ音苑と同じ高校に入るんだもん。せっかくの綺麗な音色が腐っちゃう。」 「毎日練習してるから・・・腐らないよ。」  拗ねる様に言うと、音羽から顔を背けた。  音苑の双子の兄、音羽は、音苑とは別々の高校に通っている。音羽の通う高校は、管弦楽の有名な高校だ。本当なら穹も、音羽と同じ高校に通えるはずだった。 「音羽だって馬鹿じゃん。音苑に気を使って、こんな場所で練習して・・・。」  負けずと穹も言い返すが、音羽の表情はピクリとも動かず、平常なままだ。 「別に気を使ってる訳じゃないよ。音苑の前で弾きたくないだけ。自分の姿と重ねて喜ぶから、嫌なんだ。」  音羽は顔を背ける穹に近づくと、下から穹の顔を覗き込んだ。自分のすぐ目の前に音羽の顔が見えると、穹は慌てて後退りをし、その場から離れてしまう。 「やっぱり、僕と同じ高校に入っても穹は駄目かな?まだ僕の顔も、ちゃんと見てくれない。整形でもしたら、見てくれる?」  一々嫌味を交えて言う音羽に、穹は少し腹を立ててしまう。ムッとした顔で音羽に背を向けると、不機嫌そうに言った。 「もう有賀さんに、余計な事言ったりしないでよ。」 「どうして?」 「余計な心配・・・掛けたくないし。気を使わせたくないから・・・。」  音羽は小さく溜息を吐くと、背を向ける穹の真後ろに立った。 「何だ・・・。せっかく久しぶりに会いに来てくれたと思ったら、そんなつまんない事言う為だったんだ。残念。」  すぐ後ろから聞こえて来る音羽の声は、どこか寂しそうに聞こえる。  中学の時は、音羽と音苑、穹の三人でいつも一緒に過ごしていた。だが高校に入ってからは、音苑だけではなく、音羽の事も無意識に避けてしまっていた。それは音羽が、音苑と同じ顔をしているから。音羽を見ると、音苑の事を思い出してしまい、罪悪感が湧いて来てしまう。それだけでは無い。自分の妹があんな目に合ったと言うのに、平然としている音羽の冷たさが、どこか怖かった。  音羽は穹の横を横切り、ベンチに置いたケースの中に、ヴィオラを仕舞った。ゆっくりと振り返り、穹の顔をジッと見つめるが、穹は音羽から視線を逸らす。  音羽は軽く溜息を吐くと、少し呆れた表情を見せる。 「穹は本当に馬鹿だね。僕の顔もまともに見れないのに、音苑と同じ高校に入るなんて。どうして?どうして音苑と同じ高校に入ったの?」  音羽に聞かれた瞬間、一瞬デジャブが走り、背筋がゾッとした。今日の朝も、学校で音苑に同じ事を聞かれた事を思い出す。 「それは・・・。」  俯くと、顔から血の気が引いている事が分かる。音苑と同じ顔をした音羽に、音苑と同じ事を聞かれる。まるで再び、音苑に尋ねられている様だ。  俯いたまま、中々答え様とはしない穹の変わりに、音羽が言った。 「まだ、音苑の事が好きだから?」  その言葉を聞いた瞬間、穹の心臓は跳ね上がる。ドクドクと心臓の音は高鳴り、額には薄らと汗が滲んだ。ギュッと拳を強く握り込むと、音羽から顔を背け小さく頷く。 「そう。」  音羽は小さな声で言うと、一瞬視線を足元に落とした。再び穹の顔に視線を戻すと、寂しげな瞳で見つめる。 「穹はまだ、音苑の事助けたいって思ってるんだ。天使から奪い取りたいって・・・。」 「違うよ!」  音羽の言葉を遮り、穹は大声で叫ぶと、顔を上げ音羽の顔をジッと見つめた。 「音苑の幻想を・・・壊したいんだ。普通の恋を・・・して欲しいだけだよ。」  かすれた声で言うと、又俯いてしまう。  二人の間を静かに風が通り過ぎると、海の香りがした。一瞬昔の記憶が蘇る。一度だけ三人で、この場所で一緒に演奏をした思い出が、脳裏に浮かんだ。それは穹だけでなく、音羽も。 「それで穹は、一度失敗しちゃった癖に。」  ポツリと音羽が言うと、穹の眉間にシワが寄った。歪に顔を歪めると、グッと更に拳を握り込めて言う。 「だから・・・今度は慎重にって・・・思って。」 「どうせまた、失敗するよ。」 「そんな事分からないじゃないか!」  勢いよく顔を上げ、音羽を睨み付けるが、音羽は表情を変える事無く、悲しそうな声で言った。 「分かるよ。僕は音苑の半身だから。」  音羽に言われると、妙に説得力が有り、穹は体中の力が抜けてしまう。 「それでも・・・。」  それでも助けたい・・・。そう言おうと思ったが、最後まで言えず、ゆっくりと首をうな垂れた。  音羽はそっと穹に近づくと、優しく穹の髪を撫でた。 「僕が女だったら、穹の事は僕が助けてあげれるのかな?」  穹はゆっくりと顔を上げると、悲しそうな眼差しで見つめる、音羽が目に映った。 「音羽は・・・もう助けてくれたよ・・・。俺を責めなかった。」 「それは音苑の頭がオカシイせいだったからだよ。それにね。」  音羽は両手で優しく穹の頭を抱きしめると、そっと耳元で囁いた。 「ざまーみろって思ったから。弾けなくなって、いい気味だったんだ。」  クスリと不適な音羽の笑い声が、耳元から聞こえて来る。穹はゾッとし、力一杯音羽の体を突き飛ばした。自分の体から音羽の体を突き離すと、穹は目を見開き、青褪めた顔で言う。 「お前っ・・・何言って・・・。あんなに楽しそうに・・・一緒に弾いてた癖に。」 「うん。」  音羽はニッコリと、満遍無い笑みを浮かべた。始めて見せるその笑顔は、とても嬉しそうだが、とても冷たくも感じる。 「穹と一緒に演奏してる時は、楽しかったよ。音苑は邪魔だったんだ。」  そう言うと、一度ケースの中に仕舞ったヴィオラを、再び取り出した。 「ねぇ、久しぶりに一緒に演奏しようよ。穹もそのつもりで、持って来たんでしょ?」  音羽は嬉しそうにヴィオラを肩に乗せ、用意をするが、穹は浮かない顔をさせたまま、ジッと佇んでいる。 「弾かないの?」  首を傾げ、音羽が聞くと、穹は足早にベンチの上からケースを持ち上げた。 「弾こうかとも思ってたけど・・・。もうそんな気にはなれないよ。」  穹はケースを持って、その場から去ろうとする。  ゆっくりと歩き出し、音羽から遠のいて行く穹に、音羽は「ねぇ!」と呼びとめた。穹は足を止めると、振り返る事無く、後ろから聞こえて来る音羽の声を聞く。 「また新しく、仲良しの友達が出来たんだってね。今度は女の子なんだ。」  穹は一瞬チラリと視線を後ろに向けると、「何で知ってるの?」と暗い声で聞いた。 「音苑が楽しそうに話してたんだよ。男二人に、女一人の仲良し三人組。まるで昔の僕達みたい。」  音羽はクスリと小さく笑うと、ゆっくりと弦の上で弓を弾き、低いアルト音を出した。 「音苑に壊されない様に、気を付けてね。僕からの二度目の忠告。」  そう言うと、パウル・ヒンデミット作曲、『白鳥を焼く男』を演奏し始める。  穹は演奏が流れる中、一度も後ろを振り返る事無く、公園から去って行った。
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