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「出来合いの麦茶だけど。おかわりあるからね」
叔母は慣れた手つきで、リビングに備え付けられたコースターにグラスを配置していく。橙色の日差しの中、私と妹は学校帰りに待ち合わせをして、叔母の家に来ていた。
「ありがとう、叔母さん」
「ありがとうございます。お菓子、どうぞ」
「おいしそう。どこのお菓子?」
「学校の近くに洋菓子店がオープンしまして――」
手土産を自らセッティングしていた妹は、叔母と会話を交わしながら私の隣に腰を下ろした。私は二人の話に耳を傾けつつ、窓の外や本棚を眺めたりお菓子をつまんだりする。叔母と妹は、ときおりテーブルに目を落としたり、お菓子の小袋を弄んだりしながら話し続けている。
「――うちの子なんて手土産持ってきたことないし、そもそも全然帰ってこないし」
「大学生の一人暮らしじゃ仕方ないですよ」
「まあね。それで押し入れとか整理始めてるんだ。だから尚更、もらってくれるとうれしいんだけど」
そう言って叔母はテーブルの傍らに置いてあった望遠鏡の箱をソファに立てかけた。
「結構小さいでしょ」
ソファの座面よりも二十センチほど高いから、箱の長辺は六十センチくらいだろうか。確かに天体望遠鏡としては大きくはないが、おもちゃというわけでもなさそうだ。
「結構ちゃんとしたものっぽいけど」
「うん、十分だと思う」
「通信教育講座の懸賞か何かでもらったやつだから、あまり期待しないでね」
「いえ、今まで双眼鏡だったので、望遠鏡ってだけでうれしいです。でも、やっぱり悪いから借りるだけにさせてください」
「そう? それならそういうことにしておくわ。好きなだけ持ってていいからね」
「ありがとうございます。もし必要になったらいつでも言ってください」
「りょーかい。袋はいらないんだっけ?」
「はい、持ってきましたから」
妹が通学鞄をひと撫でする。
「助かるわ。紬ちゃんは気になる本とかあった?」
「うん、何冊か。借りてっていい?」
「いいよー。この本棚、最近埃かぶっちゃってて」
「父さんの本棚ほどじゃないよ」
私はさっそく本棚から目当ての本を抜き出しながら言う。
「お姉ちゃん、掃除してあげてるもんね」
「まあ、もはや私のものだし」
「あはは」
こうして私たちは天体望遠鏡を手に入れ、一応の準備は整ったわけだ。
「お姉ちゃんは土星派? それとも……木星派?」
そんな派閥があるのか。
「んー、輪っかがおもしろいから土星かな。澪は?」
「……木星のよさがわからない人とは結婚したくないな」
好きなものをもったいぶるタイプだったか。
「天文部入れば?」
「うちに天文部なんてないし、それに私が飽きっぽいの知ってるでしょ」
飽きっぽいからと言って飽きるとは限らないと思うけど。
確かに妹が天体観測に興味を持ちだしたのは最近のことだ。妹が母に双眼鏡を借りてきて、ベランダまで付き合わされたのが先月だった。そのときは、うちのベランダが天体観測に向いていないことと、双眼鏡では見たいものが見えないらしいということがわかっただけで終わった。
興味を持ったきっかけは聞いていないが、おそらくバイト先関係だろう。友人なら私など誘わないだろうし。
「輪っかのどんなところがおもしろいの?」
「んー、……角度によって見えなくなるとこ」
「へー。……木星のことは?」
「んー、でかくて軽いビーチボールみたいな」
「私、お姉ちゃんとは結婚できないかも」
「木星のよさは澪が知ってくれてる、ってことじゃだめ?」
「……木星はね、ふわふわしててやわらかそうで洋菓子みたいでかわいいんだよ」
「私の感想と大して変わんないじゃん」
「ぜんぜん違うよ!」
下を向いたまま怒られてもな。
「見えそう?」
「ううん、見当たらない。月がそこだからこの辺だと思うんだけど」
妹は玄関先に設置した天体望遠鏡で木星を探していた。肉眼派の私はアドバイスなんてできないしな。肉眼のよさを語ることはできるかもしれないけど、それはなんか違う気がする。うーん。…………。
「澪、木星、見せてあげようか」
「えっ、お姉ちゃん調整できるの?」
「うん。じゃあ、顔を上げて、木星の方を向いて目を閉じて」
「え……? う、うん」
妹は素直なので、私が怪訝なことを言っても言う通りにする。私に素直なだけだったらいいけど、少し心配だ。
私は妹の真後ろに立ち、左手で輪を作って妹の右目に当てて、検索した木星の画像の中で一番きれいだと思った画像を表示させたスマートフォンをその先にかざした。
「右目だけ、開けて」
妹がゆっくりと右目を開く。妹は左目のウインクしかできない。
「……うわぁ、木星がすごくきれいに見える! って、お姉ちゃん……」
「私の望遠鏡、すごいでしょ。いつでもどこでも、雨の日も台風直下でも見放題」
「ありがたみないね……」
「でも、こうやって本物の惑星がある場所に向かって見てみるとちょっと違うかなと」
「うん……、お姉ちゃんらしい望遠鏡だね」
「はい、終わり」
「はぁ、もう邪魔しないでよ」
「はいはい」
私は望遠鏡の調整に戻った妹の頭上に広がる、目が慣れてきて少し明るくなった夜空をぼんやりと眺めて、思わずため息を漏らした。
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