涙が出るほどおいしいメロンパン

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焼きたてのクッキーの香りが、部屋中に漂う。 香ばしくて、鼻の奧が生クリームで満ち溢れるような甘い香り。 手作り感あふれるの細かい格子もよう。 その模様の一つ一つが結晶みたいに盛り上がっている。 表面に振りかけられている砂糖の粒は、ガラスの粉をまき散らしたように細かい光をまき散らす。 においと美しさに負けて、思わず一口。 クッキーの香りが鼻一杯に拡がる。 メロンパンが自分から私の口に入って行くような感じ。 クッキー生地のサクッとする歯触りの中から、バターの風味がすり抜けて入ってくる。 その濃厚な舌触りから、柔らかく春の日差しのようなパンの生地の柔らかさが続いてやってくる。 幾重にも薄いコットンを重ね合わせような生地の食感が、口の中に拡がって軽やかなメロディーを奏でる。 それぞれの素材が主張して、絶妙なハーモニーを生む。 後からやってくる飾り気のない上品な甘さで締めくくる。 美味しい。 駅前の商店街にある人気のパン屋さん「ぱん兵衛」。 いつも会社来行くときは、まだ開店していなくて、帰る時は、もう閉まっている。 訳あって早く帰ることになったので、その日はまだ空いていた。 レジに人が溢れて、入り口からはみ出していた。私は、吸い込まれるように最後尾に並んだ。 このまま家に帰るのがむなしいから。誰でもいいから、人の近くにいたいから。意味もなしに、ずっとこのまま知らない人の背中にくっついて並んでいたい。 その日は、朝から会社の中がどんよりとした曇り空のように重苦しかった。 どうやら明日、非常事態宣言が出ることが原因らしい。 さりげなく私を見ているような視線。 何か言いたいことがあったら直接言ってくれればいいのに。 そこが社員と一線を置かれる契約社員の辛さ。 明日から、自宅待機みたいなことを言ってきた。誰もが口をもごもごさせて、何を言っているのか分からない。クビだったら、クビって言ってくれたらいいのに。 一体どうすればいいのか分からない。 結局、就業1時間前だったけど、体調不良で早退させてもらった。 だから、こうして知らない人の背中にくっついて並んでいたい。 私より後ろに並んでいる人もいたけど、私が最後に残ったメロンパンをGETしたことで最後のお客さんになった。 最後に残ったメロンパン一個が、その日の夕食になった。 美味しかったメロンパン。 たった一つのメロンパンが、わたしの中にあったモヤモヤを全部吹き飛ばしてくれた。 ありがとう!メロンパン。明日も「ぱん兵衛」にいこうと思った。 次の日、朝起きたら待ちきれなくて、急いで駅前の商店街に向かった。 前の日とは打って変わって、閑散としている。 ほとんどのお店が開いていない。いやな予感がした。 「ぱん兵衛」の前に来た。やっぱり開いていない。 シャッターの前に張り紙が貼ってあった。 「閉店のお知らせ 3年間どうもお世話になりました。諸事情につき閉店することになりました」 私が最後のお客さんだったんだ。 レジを終えて帰る時に、レジをしていた奥さんが旦那さんを呼んだ。 エプロンを脱ぎながら出てきた旦那さんは、奥さんと目配せした。 旦那さんに目は、奥さんに「お疲れさま」言っているようだった。 二人が声を合わせて 「ありがとうございました」 深々と挨拶をしてくれた。振り返ったら、まだ頭を下げていた。 その光景が、蘇ってきた。 私の中で、たまっていたものが、体の奧から一気に噴き出してきた。 耐えきれなかった。 涙が一気に溢れてきた。泣きたい。泣きたい。 大声で泣きたいと思った。 そして、大声で叫びたかった。 「コロナのバカヤロー」
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