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結局こいつの家まで来てしまった訳だが…。
今日も誰も居ないらしい。
真っ暗な玄関を見て、独りにしなくて良かったなと、俺に何が出来るでもないのに勝手に安心してしまった。
もう何度訪れたか分からない藤倉の部屋。
広くて清潔感があって、ホテルの一室みたいに整理整頓された高校生らしからぬ部屋。
だけど訪れる度に大きなクッションや俺のお勧めした漫画なんかが増えている辺り、生活感が増してきている気がして安心してしまう。
とは言え相変わらずベッドはでかい。
いつものごとく座り心地の好いクッションに案内されると、彼は何かを取りに一階へ下りていってしまった。気を遣わなくていいのに。
案の定オレンジジュースとチョコチップクッキーを持って上がってきた藤倉は、ワイシャツのボタンを幾つか外して少しラフな格好になった。
その姿を見てちょびっと心臓が跳ねた気がするけれど、これは不可抗力だと思う。
いつもより肌色がやや多く見えるその姿は高校生とは思えないくらい大人っぽくて、目のやり場に困ってしまう…。
ちくしょう、藤倉なのに。
こんな風に思ってしまうなんて何か悔しい。
それにそんなことを考えている場合じゃなかった。
こいつの「きらい」問題は、まだ解決していないようなのだ。
だからこそずっと沈んだ表情をしているんだろう。きっと。
「なぁ、本当に他にどっかしんどいとか、おかしいとこないのか?」
「………」
訊いてもやっぱり首をふるふると横に振るだけ。朝も一応訊いたことではあるが、「きらい」という言葉しか話せない以外他に異常は無いらしい。
とりあえず身体に害が無いのならとほっとするが、心はいまいち晴れないようである。
俺の後ろ、広いベッドにゆっくりと腰を下ろした藤倉はそのままごろんと寝転がってしまった。
長い長い溜め息が、クッションの後ろから聞こえる。
…珍しい。
俺が部屋に来たらまず間違いなく隣に座ってくるか、勉強する時は正面に座ってくるかだったのに。こんな風に一人ベッドで寝転ぶ姿は新鮮だ。
やっぱり相当疲れてしまっているのだろうか。
俺に何か、できることがあればいいのにな…。
「なぁ藤倉」
「………」
「俺何もできなくて…ゴメンな」
出されたジュースの鮮やかなオレンジ色を眺めながらそう呟くと、後ろで彼の体温が近づいてくる気配がした。
振り向く間もなく抱き上げられて、同じようにベッドに寝転がされる。
高校生二人が横になっても尚スペースがあるこのベッドは本当にでかい。こんなに大きければ、寝相が悪すぎてベッドから落ちてしまう心配もないだろうなぁなんて。
そんなことでも考えていなければ俺の心臓はもちそうになかったのだ。
すぐ傍に奴が居る。
見慣れたはずの、ヘラヘラした変態の顔がある。
自分のすぐ隣に俺を寝転ばせた彼は満足そうに微笑っていた。白いシーツに淡い色の髪が広がって、ほとんど隙間の無い二つの身体の間に皺ができる。
手を伸ばせば、いや、伸ばさなくてもすぐそこに触れられる距離。
呼吸をするだけで相手の息が、自分の息が顔にかかってしまいそうなほどに縮んだ距離。
…見慣れてる、はずなのになぁ。
はだけたシャツの隙間から鎖骨が見えた。覗き込めば、腹筋まで見えてしまいそう。
いやいや。何考えてるんだ俺。やだな…何かこいつの変態思考が移っちゃったのかな。
視線を右往左往させていると、ふっと息の漏れる音がした。
それとほぼ同時に身体を抱き寄せられたらしい。いつの間にか視界が色白の肌でいっぱいになって、背中に馴染みのある手の感触が降りてきたのだ。
こいつの過剰なスキンシップには慣れてきたつもりだったけど、これはちょっと…。流石にいくらなんでも近過ぎると思う。
呼吸する度にどうしようもなく俺を安心させる匂いが肺に満ちてきて、触れているところ全部温かいのか熱いのか分からなくて、鼓動の振動までもが全て伝わってしまいそう。
その上つむじの辺りに顎を擦り寄せられている気がして顔を上げると、もうほとんど触れてしまってもおかしくない距離に彼が居た。
笑って…ない。無表情でもない。
何だろうこの顔、この瞳…。
妖しいこの光を俺は見たことがある、気がする。
ばくばくと五月蝿い心臓をまるで他人事のように感じながら美しいそれから目を離せずにいると、やがてふいっと目を逸らされてしまった。
一体どうしたというのだろう。
さっきまで緩く俺の背を撫でていた手は今はぎこちなく、宙を彷徨っている。
よくよく見ると、髪の隙間から僅かに覗いた耳が真っ赤だった。
何だそれ。
何だ、今さら。
「ふふっ」
何だか滑稽に思えて、よく分からないけどおかしく思えてしまってつい声を上げて笑ってしまう。
かわいい、とか。
そういう感情、こんな時に抱くもんなのかな。分かんないや。
俺の態度が不服だったのかそれとも恥ずかしかったのか、目を逸らしたままの藤倉がやがて耐えかねたかのように口を開いた。
そうして漸くまた、言葉を紡ぐ。
たった三文字。聞き慣れた声で。
「…きらい」
「………ふふっ」
拗ねたみたいな表情と声音でそう言うもんだから俺はもっとおかしくなって、ついわしゃわしゃと猫のように柔らかな髪を撫で回してしまう。
「ゴメンゴメン、ぶっ、ふふふっ」
「………」
不服そうな表情を崩さず、暫く俺にされるがままに頭を撫でくり回されていた彼がふいに俺の手を掴んだ。
ありゃ、怒っちゃったかな。からかいすぎたかも。
手を拘束されて、藤倉の背中に回されて、またぎゅううっと抱き締められてしまう。
広いベッドの上でふたり。
制服のまま、言葉の魔法も解けないままで。
「…きらい」
「うん。ゴメンて」
「きらい」
「うん」
「きらい。きらい、きらい…」
「ん…」
顔が離される。すると、ほらな。もう。
予想通り、泣きそうに歪められた顔があった。
苦しそうに寄せられた眉根は長い髪が覆い被さってあまり見えない。
手でそっと髪を撫で上げると、擽ったそうに片目を細めた。
そのままするりと頬を撫でる。やっぱりされるがままだ。
「俺のこと、きらいなんじゃないの」
「………」
言うとまたきゅっと唇が結ばれてしまったから、親指でそっとそこをなぞった。
「噛むなよ。冗談だよ」
「………」
「ねぇ、また、あれ言って」
「?」
「電車で言ってくれるやつ」
「………」
「分かってる。でも俺には、ちゃんと聞こえるから」
「………」
「なぁ…言ってくんないの?」
「……き」
「うん」
「 」
言い終わった後、俺の唇は自然と彼のそれと重なった。多分距離が近過ぎたせいだと思う。きっと、きっとそう。
柔らかい感触と一瞬だけ触れ合ったあと、藤倉が驚いたように目を見開いた。長い睫毛が僅かに震えているのがこの距離だから分かる。
「さ、澤くんから、今…」
「あ」
「え」
「お前、今普通に」
「あ、ホントだ」
話せるようになってる…。
何がどうしていきなり話せるようになったのかは分からないけど、とりあえず良かった。うん、良かった…。
「治ったんなら俺はもう帰って、おい」
「やだ。今の行動をなかったことにはさせない」
起き上がろうとしたところを腕を引かれて再び引き戻された。
まただ。また至近距離に藤倉の顔がある。しかも今度は満面のニヤニヤした顔が。
「ちょっと思い出せない」
「ふうん?」
「大体お前がやたら近づいてくるから」
「くるから?」
「…当たっちゃった、というか」
「当たっちゃったの?」
「当たっちゃった」
「そっか、そっかぁー」
ふふふっと笑う変態はもう瞳だけでなく言葉でも雄弁に俺を責め立ててくるみたいだ。くそう。
腕を離されないまま身体ごと引き寄せられて、ベッドの上じゃなく藤倉の身体の上に乗せられる。近い、どころじゃない。
「んぅっ!?」
「ゴメン、俺も当たっちゃった」
「こんの…」
「んー?」
見上げればすぐそこに、ニヤニヤと意地悪そうな笑みを湛えたいつもの顔があった。
俺はどんな顔をしているだろう。
様々な抗議の意を込めてキッと睨み付けてやると、反比例して変態の微笑みが深くなる。
「離せよ変態」
「やだ」
「俺のこときらいなんだろ」
「そう思う?」
「………意地悪いぞ」
「それはお互い様。言い直すよ、あのね」
それから桜色の唇が紡ぐ言葉は、あの三文字ではなかった。
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