それだけのこと

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 いつものような、いつもの日。  夕方5時半、終業のチャイムが鳴る。残業のある正社員にとってはこれからが仕事本番、といったところだが、派遣社員の私には、よほどの繁忙期でない限り、それは厳格な終業のサインだ。  案の定、上司が「田尾さん。今日はもうあがって」と声をかけてくる。  私はPCの電源を切り、お疲れ様です、お先に失礼します、と声をかけて、ちいさなオフィスを背にする。  夜6時。仕事終わりの人でごった返す駅を、私はアパートの最寄り駅とは逆の方向の電車に乗る。  夜7時。到着するのは大都会。  そこから私はロッカーで荷物を取り替え、公衆トイレで汚れてもいい衣服に着替えると、ネオン煌めく繁華街に消える。  そこからが、昼の姿からは隠された、私の第二の、そしておそらく本来の顔だ。  いつもの路上、いつからかシャッターが降りたままの潰れた飲み屋前に到着すると、私はそこにトランクから絵具を引っ張り出す。道にメルヘンチックなキャラクターの描かれたレジャーシートを敷き、キャンバスとアクリル絵の具、そして絵筆を取り出すあたりになれば、周りの視線はもう気にならない。  そして色とりどりの絵具の固まったパレットから、その日の気分そのままに色を選び、キャンバスに一線、鮮やかな線を描く。
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