楽園は遥か遠く

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 その島の話をする時、叔父はいつもどこか遠くを見る眼をする。 「あの島はまさに楽園だったよ。出来ればもう一度行きたかったんだが……」  そうして叔父は、私に島の話をしてくれるのだ。  その島は、遥か南の海にあったのだという。  叔父がその島を訪れたのは、知人のつてをたどってのことだった。バカンスを過ごすのに、ゆっくり滞在出来る場所を探していたのだ。  訪れてみると、ハワイやグアムといったメジャーなリゾート地とは違う、素朴でのんびりとした空気が叔父の性に合った。便利なものは何もない島だったが、気にならなかった。叔父は毎日、磯辺で釣りをしたり、エメラルド色の海でダイビングをしたり、島の中心にある休火山で山歩きをしたり、潮風を感じながら読書に没頭したりしていた。  まるで楽園だった、と叔父は言う。ゆったり流れる時間、人々との暖かい交流、美しい自然、新鮮で美味しい海の幸。それほどに、叔父にとって島での時間は忘れ難いものだった。  それは、叔父が本国へ帰る日が近づいている頃だった。  ある日叔父は、滞在している村の者達が何かを書いているのに気づいた。木の皮を叩いて作った紙状のものに、草木の汁を煮詰めたものや石を細かく砕いて水に溶かしたものをインクとして書き込んでいる。大人も子供も、男も女も、村中の皆が。 「何を書いているんですか?」  叔父は村人の一人に訊いてみた。 「海神様への願いごとだよ」  村人はそう答えた。  この島では、十年に一度、海の神を祀る盛大な祭りを行うのだという。  島には、魚や貝といった海の恵みが欠かせない。海の恵みに感謝を捧げ、これからの安寧な暮らしや長寿、健康や家内安全を神に願うのだ。  願いごとは村の者が総出で書き出し、海に流す。それが祭りのクライマックスだという。  叔父はこの祭りに興味を持った。元々叔父は文化人類学や歴史学が好きで、アマチュアではあるが研究者の端くれである。興味を持たない筈がなかった。  村人が書いているのは、どうやら文字のようだった。しかし、村人達が普段使っている文字とは違う。聞くと、これはこの祭りでのみ使う特別な文字なのだと教えられた。 「海神様から授かった文字なんだよ」  村人はそう言った。  その文字は魚の形をしていた。飾り文字の類のようだった。  叔父の見たところ、その文字はアルファベットのような表音文字ではなく、中国や日本で使われる漢字のような表意文字であろうと思われた。一つ一つの魚の形や文様に、それぞれの意味を持たせているのだ。  これは大漁を願う文字、これは家庭の円満、これは子供が健やかに育つように、これは老人の長寿、これは無病息災、これは村の繁栄。  村人に教えてもらいながら、叔父は木皮紙に魚の形の文字を書き記した。  内心、叔父は興奮していたという。 (こんな文字、他の土地では見たことがないぞ!)  論文に書いたら、学究の徒として評価されるかも知れない。そんな下心が、叔父には確かにあった。
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