楽園は遥か遠く

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 祭りの日は、月が満ちる日と決められていた。ちょうど叔父がこの島を発つ前日だった。  昼と夜の間に祭りは行われる。海神が太陽と月の交代を仲介するという信仰から来ているのだが、昼間は多くの者が漁に出ているという事情もあるのだろう、と叔父は考えていた。  小さな入江の浜には祭壇が建てられていた。海神への供え物も持ち寄られている。入江のあちこちに篝火が焚かれ、浜を明るく照らしていた。村人達はそれぞれに着飾り、化粧をし、そこに集まった。叔父はこっそりカメラを持ち込み、その場に紛れ込んでいた。 「海神様の下さる恵みに感謝を!」 「感謝を!」  村長(むらおさ)の号令で祭りは始まった。村人達は歌い、舞い踊り、感謝の祈りを捧げる。叔父はその様子を何枚か写真に撮った。  太陽が山に沈み、満月が海から昇り始める。篝火の明かりがあるとは言え、いや、あるからこそ、宵闇は次第に濃くなって来る。  若者達によって何艘かの小舟が引き出された。中には、村中から集められた木皮紙が積まれている。 「全ての願いは積んだか?」 「残してはいないか?」  村人達が口々に呼びかけた。大人達も、子供達に訊いている。願いを書いた木皮紙を家に忘れて来てはいないか、まだ持ってはいないか。子供達の何人かが家に走った。  村人の願いが集まると、若者達の小舟は海に漕ぎ出した。  ……実のところ、願いは全てではなかった。叔父はこっそり、自分の書いた願いの木皮紙をポケットに隠し持っていた。村人達はそれを知らず、小舟を入江の中程まで進めた。  それぞれの小舟でも焚かれている篝火が、入江の海面を照らし出した。 「海神様! 我らの願いを受け取りたまえ!」  言葉と共に。  小舟の若者達は一斉に、木皮紙を海に投げ入れ始めた。  叔父は目を見張った。  木皮紙に書かれた魚の形をした文字は、海に入った途端に本物の魚と化したのだった。篝火に照らされ鱗をきらめかせた魚達は、ばしゃばしゃと飛沫を上げながら一心に沖へと泳いで行く。満月の昇る方向へ。  叔父は呆然と、村人達は祈りながら。  皆、どこへともなく泳ぎ去って行く魚の群れを見送っていた。  帰国した叔父は、荷物から悪臭がするのに気づいた。あの島から持ち帰った荷物だ。それはまるで、生の魚が腐ったような臭いだった。  そんな臭いが出るようなものは持ち帰ってはいない。いない筈だった。叔父は荷物を漁り、臭いの元を探した。  果たして、臭いを出しているのはあの魚の形の文字を書いた木皮紙だった。木皮紙は何十年も時を経たようにぼろぼろになり、悪臭を放っていた。書かれている魚の文字も、かすれて原型をとどめていない。何をどうしてみても、悪臭は消えなかったし、文字も読める状態には戻らなかった。  臭いは荷物に一緒に入っていた他のものにも移っていた。叔父は仕方なく、全てを焼いてしまうしかなかった。  祭りの光景を写した写真も、何故か全て真っ白になっていた。叔父があの島にいた痕跡は、何もなくなってしまった。
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