土曜のトイレットペーパー

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カラカラカラッ トイレットペーパーの芯が顔を出した。 想像していたけど、甘かった。 想像しているときはつらくない。 想像を越えつらさを味わって初めて焦る。 自分みたいな人は少なくないだろうか。 八ツ橋ほどの薄さの紙を携えて彼は勝負に挑む。 老舗の料亭よりも薄暗い部屋の中で 彼は人生で何度もした作業を、気持ち悪さなのか悔しさなのかよくわからない感覚で行った。手を洗いながら思う。 物質的に気持ち悪かったのは数秒だが、なぜかその意識は部屋に戻っても続いている。 ブーン という冷蔵庫から出てるのか違うのか、それすら確証がない謎の音だけがこだまする部屋。 それが本当に冷蔵庫から出ているのか、それとも他に原因があるのではないか、そんな興味・気力はとうに彼には失せている 正確にいうとその音が気にならないわけではない。 だが、その頭の片隅にその僅かなもどかしい感覚が残り続ける感覚に、彼はもう慣れてしまっていた。 そんな寂れきった部屋で彼は思った。 「次に便意が来たらどうしよう」 突然の来客よりも遥かに来る可能性が高い人生の太客。 それに対する恐怖の感覚はまだ彼にはあった。 玄関の棚に転がっている財布を取りに行く。 中身を見る。 というより確認する。 自分の見立てより増えてるなんてことはありもしないがいつも200円くらい減っている感覚はある。 携帯の画面を見る。 これもそうだ。 自分の見立てより20分くらいは進んでいない。 そうした心の中の混沌をくぐり抜け、彼はドアをゆっくり開け履き潰したスニーカーで明るい夜に繰り出した。 シャンデリアが富裕の象徴だと誰が決めたのだろう? シャンパンがワインが富裕者の飲み物だと誰が決めたのだろう? そんなものは知らない、知るよしもない、知りたくもない。 ただ私は僅かに光るグラスとシャンデリアの光沢。 そして目映い窓の外の光を真暗闇から眺めるのがこの上なく幸福感を感じるのである。 いや、むしろそれしかない。 それ以外に幸福感を感じることなどもうないのかもしれない。 高級外車を乗り回し 高級スーツを着こなし それになびく女を横に並べ 夜は嗚咽を聞き流し 朝は出てくる料理に舌をくぐらせる。 昼は群がる男に講釈を垂れ 時折厳しく、時折優しく。 人の愛想笑いというものを1日に何度見たら気が済むのだろう。 際限なく夜は毎日やってくるはずなのに、日々その時間が減っていく気がするのは何故か。 食べかけのフレンチトーストとボルドー産のワインをテーブルに置き彼はふと部屋を出た。 久々に車に乗り無意識に走らせると、ネオン街を抜け川沿いに着く。 ふと降り歩く。 ふと思う。 いつから土曜の夜が楽しくなくなった? いつから心から笑わなくなった? いつから感情の起伏がなくなった? 手に入れたからか。全てを。 全てを手にいれたはずなのにこの喪失感はなんなんだ。 石を蹴る。綺麗に遠くに飛んでいく。 感情はない。 昔はこんなことでも感情が溢れたのだろうか。 悲しいときに楽しい顔をし、嬉しいときに喜びを隠し、悔しいときに涼しい顔をしてきたツケがこれなのだろうか。 だがまだ希望はある。 今この状況を悲しいね、と思えた。 まだ残っている。 どうすればいい? 再び土曜日の夜を楽しむためには。 戻ればいい。 あのころの状況に。 全てを捨てよう。 金も、女も、地位も、名誉も、仲間も、いやそれはその必要がないか。 やり直そう。 リセットしよう。 もう一度戻ろう。 仕事をクビになってボロアパートで独り暮らしをしていたあの頃。 トイレットペーパーを買う金もないのに最中に紙がなくなったときの、あの喪失感を取り戻そう。 ふと見上げると目の前を何色かわからない小鳥が二羽駆け抜けた。 真っ暗な森に迷わず飛んでいく。 今夜、星は出ていなかった。 彼もまた歩き出した。 もう一度石を蹴る。 さぁ取り戻すんだ。 あの土曜日を。 また車を走らせ自宅の方に戻る。 ネオン街。 こんなに明るかったけか。 夜は更けたはずなのに。
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