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1-11 帰り、時間ある?
星野の同期である押野は3年前、当時まだ21歳だった新人の指導員をしたときに、ある問題に直面した。それは免許制度の改正による「ある年以降に交付された普通免許では、標準型の七ツ星船が操縦できない問題」である。
おそらくそれが最近に起こった問題だったら、誰かがすぐ指摘したのかもしれない。
だがそれも3年前のことで、そもそも対象となる年齢層の応募が少ないこと、またよつ葉の入社経緯が特殊だったこともあり、見過ごされてしまったのだ。
「なあエイト、お粗末な話だよな」
星野から船の起動キーを受け取った新庄は、苦笑いしながらバイタルチェックの認証を済ました。
「押野さんから聞かれなかったら、運転席座らすまで分かんなかったってことだろ?」
「まあ、そうなりますよね。船が起動しませんからね……」
管理課員の中でも事務を主に担当している新庄は、ずっときまりの悪い顔をしていた。
「まあいいけどさ、お疲れ」
そう言い残すと、いつものように星野はさっさと帰ってしまった。
「エイト、気にすんなよ。もっと手前で気づくべきことなんだから。菅原さんも、別に大した問題じゃないから、気にしないでね」
三納が2人に声をかけた。
「週明けに、所長からまたお話ししてもらうから」
「はい……」
よつ葉は力なく答えた。
そのテンションの低さに、新庄はいてもたってもいられない表情になった。
「そういえば、まだ8日目なのにほとんど1人でできたって? すごいね!」
「あ、ええと……、ぎりぎりです」
それは新庄なりの精一杯の励ましだったが、よつ葉は下を向いて微笑み、静かに返すだけだった。そして退勤の点呼を済ませたよつ葉は、足早に帰ってしまった。
「三納さん、どうなるんですか」
新庄が浮かない顔で聞いた。
「免許追加で取るか、小型船リースするかどっちかだけど、小型船だと使い勝手悪いし、彼女もそれは望まないだろうからね……」
「そうですか……」
消え入りそうな声でうつむいたあと、新庄はすぐはっ、として顔を上げた。
「そういえば長池さんから頼まれてたチラシ、また渡し損なっちゃいました」
そう言って新庄が点呼台の下から取り出した紙には、
『筋肉痛、疲労回復には銭湯! 銭湯同好会 会員募集中』
と書かれていた。
「星野さんが一緒だと話しづらいらしくて」
そのチラシを手に取って眺めていた三納はやがて乾いた笑いを浮かべると、それを新庄に突き返し、ぼやくように言った。
「こんなオッサンたちと銭湯に行きたいなんて思うわけないやろ」
新庄は口元をひきつらせながら、受け取ったチラシを何事もなかったかのように点呼台の下へしまった。
よつ葉はその週末も、筋肉痛に苦しめられた。
それは前週ほどではなかったが、幼なじみとの約束は「また今度」になった。
さすがにニャオンとの2往復の再現にならないよう、少しお洒落をしてみたが、行先にドラッグストアが加わっただけで、しんどくて帰ってきてしまった。
よつ葉は歯を食いしばりながら浴室のバスタブを洗い、ドラッグストアの袋から奮発して買ったアロマオイルを取り出すと、ふたを少し開けて香りを楽しみ、バスタブにお湯を張った。
「ぅおぉお。これは……」
久しぶりにお湯に浸かったよつ葉は、思わず変な声を出してしまった。
皮肉なことに銭湯のことが頭から離れなかったせいで、このときからアロマオイル集めと休日のアロマ浴は、よつ葉の趣味になったのだった。
週明けの月曜日、高橋を含めて3人で話し合った結果、よつ葉は免許を追加取得することになり、そのスケジュールについては高橋が調整することになった。
よつ葉は金曜日と同様に、その日もほぼ1人で仕事をこなすことができたため、火曜日には別のコースに付けられることになった。
いままでより少し難易度が上がるそのコースで、初日の火曜日こそ星野の手を借りたものの、それからの3日間をよつ葉は1人で乗り切った。
しかも最後の金曜日、星野はよつ葉に対してなにひとつ指摘を入れることがなかった。
「帰り、時間ある?」
2便の帰りの星野の唐突な質問に、1日の余韻に浸って油断していたよつ葉はひっくり返りそうになった。
「所長が話あるって。例の免許の件で」
星野はあたふたするよつ葉を見下ろしながら続けた。
「俺からも話あるから、ちょうどよかったわ」
「あ、はい、大丈夫です」
よつ葉は一瞬動きを止めたが、冷静を装って答えた。
星野の話とはなんだろうか。
ようやく最低限のレベルに立ったから、ちゃんと教えてやるぞとでもいうのだろうか。
だけど免許をとるため仕事を離れれば、いまできていることが、またできなくなってしまうかもしれない。
不安と期待が入り混じった複雑な表情のよつ葉を乗せ、星野の船は軽快にセンターへ戻って行った。
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