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「まだお酒は刺激が強いようなので碧螺春をお持ちしました」
盆には湯気立つ二つの茶碗が仲良く並んでいる。
龍井茶に似てもう少し穏やかな香りが私と永南の立つ辺りにも漂ってきた。
「張の坊っちゃまもよろしければ召し上がって下さい」
灰色の髪をした執事は長身を折り曲げるようにして茶碗をテーブルに置く。
着ているのがタキシードならさぞかし素敵な「ロマンスグレーの紳士」に見えるだろうに、纏っているのが白人的な長い頸にも広い肩にも窮屈そうな長袍であることがこの人を「異邦の高級奴隷」に見せている。
「ありがとう、ジェン」
韓服の御曹司は鷹揚に告げると、私に先んじて茶碗に手を伸ばした。
「ありがとうございました」
舞台の方からも従姉妹たち二人が揃って述べる声が響いてくる。
振り向くと、若い下男(これも何度か見掛けたが私はまだ名前を覚えていない)が琴に絹の覆いを掛けて運び出そうとするのに梅香姐様が
「気を付けて」
と静かに声を掛けているところだった。
元の世界の梅香ちゃんもピアノが趣味で良く弾いていたから、この世界ではそれが琴に置き換わったのだろうか。
「ほら、君も飲もうよ」
ふわりと橘に青葉めいた甘い匂いの混ざった香りがして、振り返ると、永南がもう一つの茶碗をこちらに差し出していた。
水色の韓服の肩越しにジェンが微笑みながら頷いて遠ざかっていくのが見える。
「ありがとう」
私は執事と許婚の双方に向かって頷くと、仄かに湯気立つ茶碗を受け取った。
ジェンが淹れてくれたお茶だからきっと大丈夫だ。
陶器を包む両の掌には程好い温かさが伝わってくる。
「これからゆっくり思い出していけばいいんだよ」
淡い湯気越しに見える浅黒い婚約者の面は穏やかに優しい。
キュッと旗袍の詰襟に首を締め付けられるような感じが蘇った。
パジ・チョゴリに玉飾りを着けたこの人にとっての私も恐らく自発的な恋愛から選んだ異性ではないはずだ。
恐らくは親や家の事情で宛がわれた相手に過ぎないだろう。
それでも、この人は「未来の妻」とされた相手には出来る限りの思いやりを示そうとするのだ。
それだけの良心を備えた人なのだ。
口に含んだお茶はふくよかな甘さの底に苦味を秘めている。
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