最終章 たとえばこんな、ラブソングみたいな

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「あたしね、実家へ帰ろかなって思ってる。」 病室の中、僅かな沈黙の後で、母親は俺の方を見ることなくそう言った。 「…実家なんてあったのかよ。」 この20年、母親の親類や、俺以外の家族の話のことなんて聞いたこともなかった。 「16の時家出同然に飛び出してからはずっと音信不通だったからね。こうやって自分が死にかけてさ、なんか急に二度と帰らないって思ってたはずの地元のこと、思い出しちゃって。」 「…。」 酒が入ってない母親とこうしてまともに話すことなんて随分久しぶりだと思いながら、続く会話に耳を傾けた。 「…連絡、取ったの。親もどうしてるかなんて全くわからなかったし、あたしのことなんて呆れて忘れてると思ってた。でもね、…すぐ、お前かって分かってくれて。」 「…うん。」 「帰って来ていいって、帰って来いって言われた。あんな何にもない田舎の漁師町なんて大嫌いで二度と見ることもないって思ってたのにね。」 「…。」 「…両親ももう歳だからね。」 俺の中での母親は、自分勝手で、感情的で、暴力的で呂律の回っていない姿しか浮かばない。 こんな風に、俺にはわからない故郷のことを話す姿は、小さく穏やかで、別人のように見えた。 「…アンタはどうする?」 そこで初めて母親は真っ直ぐに俺に視線を向けた。 来いとも来るなとも言っていない、さらりとした口調で。 いつもの濃い化粧をしていない、その素顔はやっぱりなんだか俺に似てるな、なんてそんなことを思った。 「…俺は行かない。」 俺は母親の顔を見てはっきりとそう告げた。 頭の中には雅己のあの笑った顔ばかりが浮かんでいて。 離れてしまうなんて、考えもつかなかった。 「一緒に生きていきたい人がいるから。ずっと傍にいたいって思うから、だから俺は、一緒には行けない。」 「そう。」 そんな俺に対する母親の反応も、あっさりしたもんだった。 それで終わるもんだと思っていたのに、ふいに母親から溢された次の言葉に、俺は一瞬、言葉を失ってしまった。 「あの学校の先生してる人でしょ?」 「…!何で…、」 「雑誌とか飲み物とか要るものとか色々、アンタが来ない時に差し入れてくれてたの。知らなかった?」 「知らない。アイツもそんなの言わないし…。」 戸惑いが心の中に湧き出していく。 そんなこと、雅己は一言も言っていなかった。 あ…! ふいにある心配が頭を掠め、俺は少しだけ語気を強めて母親を睨む。 「まさか、アイツに金せびったりしてないだろうな!?」 「そんなことしないわよ。流行りのスイーツなんかは頼んだけど。」 「マジかよ…。」 「でもまぁ、なんて言うか気の強い女に振り回されて結婚詐欺にでも遭ってそうな男よねー。」 「…まぁ、それは多分、言えてる…。」 俺の心配なんてさらりと受け流され、その上この母親にすら言い当てられるアイツの人の良さとのんきさは何なんだよ…と脱力しかかったところにさらに母親が続けた。 「アンタがね、仕事と勉強で忙しいからって、言ってたよ。…また学校、行くんだって?」 「…っ、…まぁ…。」 俺が高校を辞めたのは、言わずもがな金が必要で早く働きたかったからというのもあったけど、自分と違って何の悩みもなさそうな奴らと同じ空間にいるのが心底苦痛だったというのがあの頃の自分には一番、大きかった。 俺は金もないし、家に帰ればロクに働かず、酒か男に溺れるような母親がいる。 けど、同級生の奴らはヘラヘラと部活やらバイトやら恋愛やらを楽しんでいて。 自分とそいつらの生きる世界のあまりの違いように打ちのめされていった。 …今思えば、羨ましかったんだ。 親にも、周りにも当たり前のように愛されてる奴らが。 自分にはきっと一生手に入らないと思っていたものだったから。 …でも、今は違う。 俺を見て、好きだって言って、笑ってくれる人がいる。 「朔くん、もう一回学校通ってみない?」って、俺が働きながら通える高校を、忙しい仕事の合間に嬉しそうに見つけて来てくれた人がいる。(進路相談は専門分野だからね!なんてすんごいドヤ顔はしてたけど。) そんなことを思い起こしていた俺に、母親は 「頑張んなさいよ。」 とだけ言った。 酒に酔って暴言ばかり吐いていた女から初めて聞いた、母親らしい言葉だった。
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