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当日の朝、思い設けた通り、彼女が独りベンチに佇んでいたのでM博士は彼女と朝の挨拶を交わした後、彼女に接近し、持ち掛けた。
「またお会いしましたねえ」
「ええ」
「この辺りにお住まいなんですか?」
「ええ、つい先日引っ越してきたんです」
「そうですか。失礼ですが、お独りで?」
「ええ」
「はあ、そうですか、僕も独身でして、あっ、申し遅れました」とM博士は言ってから名刺を取り出して、「僕はこういう者です」と言ながら彼女に名刺を差し出すと、彼女が受け取って言った。
「博士でいらっしゃるんですね」
「ええ、あなたは何をされてるんですか?」とM博士がすかさず訊くと、彼女は少しまごついて言った。
「あ、あの、OLです」
「ああ、そうですか、キャリアウーマンいらっしゃるんで」
「え、ええ」
「仕事は大変でもありますが、楽しいものでもありますよねえ」
「まあ、そうですねえ・・・」
「僕も楽しいですよ。だから仕事一筋になっちゃいましてね、この歳まで女性には縁がなかったんですが、これからは仕事を忘れても良いかなって気がしています。あなたはどうです?」とM博士がずばり訊くと、彼女は急に花びらが開いたかのように華やかな笑顔になって目を爛々と輝かせて言った。
「えっ、あの、私も・・・」
「はあ、そうですか、では横に座っても宜しいでしょうか?」とM博士が押しの一手といった感じで猶もアグレッシブに訊くと、彼女はM博士を受け入れようと呟いた。
「ええ、どうぞ」
「いやあ、あなたの隣に座れるとは光栄にして感激です」とM博士は長年の夢が叶ったように仰々しく言いながら遠慮なくベンチに腰を下ろした。「あの、こうなったらお聞きしますが、お名前は?」
「あの、田中雪と申します」
「そうですか、下の名は何と書くんですか?」
「あの、冬空から降るあの雪と書きます」
「そうですか、雪さんか、確かにあなたに相応しい良い名だ。実際、僕はあなたを初めて見た時、雪月花という言葉が浮かびましてね、なんて綺麗な色白美人なんだろうと思いましたよ」
「いえいえ、Mさんはお口が大変お上手ですのね。Mさんこそ好男子でいらっしゃいますわ」
「いやいや、僕なんか、雪さんのように褒められるべき者ではないですよ。しかし、何ですな、あなたほどの綺麗な方が独身というのは不思議でなりませんねえ・・・そうか、婚約者とか彼氏とかが・・・」
「いえ、そんな方はいませんけど」
「それはほんとうですか?」
「はい」
すんなりと返事した雪の花顔をM博士は覚えずまじまじと見て、「んー、全く不思議だ・・・」と如何にも不思議がっていると、雪が思わせぶりにしとやかに呟いた。
「私、内気なんですの」
「内気でも声はかけられるでしょう」
「いえ・・・」
「そんな訳ないでしょう」
「いえ、ほんとに・・・」
「ふーむ、魔訶不思議だ。高嶺の花に見えるからかなあ・・・」
雪はスカートに覆われた太腿の上に重ねて据えた繊手をいじらしく擦り合わせ紅葉を見つめながら無言でいる。
「雪さんはどうも今時珍しく言葉遣いが綺麗でいらっしゃるし、奥ゆかしい感じだから、その美点が却って今時の男には取り付く島もないと言うのか、取っつきにくく受け取られるのかなあ・・・」
雪は同様に無言でいる。
「僕は懐古趣味という訳じゃないですが、言葉遣いが昔風に綺麗で奥ゆかしい人は好きですよ。況して雪さんのような美人は・・・」
雪は同様に無言でいる。
「ほんとに好きですよ。言うなればですなあ」とM博士は前置きした後、こんな状況になる場合の為に考えておいたセリフを吐き出した。「例えば、私の浮き輪が流されちゃったの。取って来て!と雪さんに言われたとしますよ。雪さんの指差す方を見ると、沖の方に米粒大に見える浮き輪とも見分けがつかぬ物が辛うじて見える。あんな遠い所までとても泳いでいけない。きっと途中で溺れるに違いない。そんな危険を冒してまでも泳いで行く。そうして溺れて死んでしまっても良い。そのように僕は雪さん、あなたの為なら死んでしまっても良いと思う位、恋に落ちてしまったんです。どうです、付き合ってくれますか?」
雪はこんな長々としたセリフを立て板に水の如く語ったM博士を半ば感心し半ば可笑しく思いながらにんまりと含みのある笑みを浮かべてM博士と顔を合わし、「ええ、喜んで」としおらしく返事した。
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