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路上に、倒れている人影があった。十メートル以上離れている。倒れた状態で、うめき、助けを求めるように、片腕だけをゆっくりとうごめかせていた。
夫に間違いなかった。轢き逃げされたのだ。
すぐに救急車を呼べば、助かるかもしれない、と思った。
すぐに、頭のなかに、声が響いた。
(いやよ。放っておけば、あの男は死ぬ。これは、神様からのプレゼントかもしれない)
あたしは見て見ぬふりをして、逃げだした。アパートに戻ることにした。
もしかしたら、あたしのことを、だれかが、どこかで目撃しているかもしれない。あるいは、どこかの家や路上に防犯カメラが設置してあって、あたしの姿が映っているかもしれない。後日、警察が訪ねてきて、夫を見捨てて逃げたあたしを、逮捕するかもしれない。
でも、これだけは確かだ。
あたしが夫を轢いたわけじゃない。
あたしはただ見捨てるだけ。
たとえ捕まったって、罪はずっと軽いはず。
あたしはアパートに戻ると、電話を待ちつづけた。夫の帰りを待つ、貞淑な妻のふりをして。
それなのに、まだ生きているなんて。
「とにかく、病院へいかないと」
気を取りなおして、立ちあがった。
(大丈夫。これが本当に神様からのプレゼントなら、あの男はきっと死んでくれるはず)
あたしは夫の死を願いながら、一応保険証やお金を準備した。
部屋の明かりを消すと、窓の外は、もう夜の闇に包まれていた。
(了)
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