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「さっきは、ありがとう」
七見に目を覗きこまれていた。驚いて肩が跳ねる。
「え! いえいえ」
咄嗟に、首を横に振る。
周りに見られたくない。彼と話したらどういう風に見られるのだろうか。自然と返事も固くなる。これ以上、このクラスから浮きたくない。
「なんか今日、暑くない? 俺だけ?」
意外にフランクな呼び掛けに言葉を探す。
表情は無表情に近く、読み取れない。
まだ、結衣花は席についておらず、遠くから笑い声が聞こえることを確認する。
「そうだね! 26度まであがるみたいだよ」
「天野さんって、マンガのキャラみたいな名前だね」
「あはは。よく、言われる」
ぎこちない言葉で、必死に笑顔を作る。
「これ、つむぎであってる?」
座席表を向けて、紬の名前を指して尋ねられた。
笑いながら、うなずく。
「へぇー、ちょっと高級そう」
「七見君も珍しい名前だね」
「ん?」
一瞬の間、無表情のまま固まった顔に不安になる。次の瞬間、七見は弾かれるように笑い始めた。
「え、え……なに? 違った? ごめん」
名前を間違えるなんて失礼だ。動揺で焦る。
「いいよ、しちみで」
可笑しそうに、七見が涙の浮かんだ目を擦る。
錦糸が解けるように、ふわりと咲いた愛嬌のある笑顔に見惚れてしまう。あの無表情さが嘘のようだ。
堪らず固まっていると、側に人の気配を感じた。
「えー、七見が女子と話すなんて珍しいじゃん」
井野森が会話に入ってきたのだ。
周りのクラスメイトに意思を誇示する口ぶりだ。
「こいつさ、中三同じクラスだったんだけど、根暗で全く話さねぇから、お化けちゃんって呼ばれてたんだけど、まあーよく話すようになったじゃん」
揶揄いながら、七見の髪を軽く叩く。
紬の中に嫌な感情が流れてくる。
七見は井野森を見ることもなく、黒板へ向き直り、遠くを見つめ始めた。あの無表情さが戻ってくる。焦点の合わさない覇気のない瞳だ。
胸が騒つく。井野森は詰まらなさそうに舌打ちすると、再び、浅井さんに声を掛けにいった。
諦めを灯した虚な目はただ、前を見据えている。
どこか焦点を合わさない目に、怖いとすら思った。紬は昔から、人の悪意に敏感だ。井野森君の攻撃的な部分も、七見の読めない心情も、不安でしかない。
「ブスが調子に乗ってんな」
いつから座っていたのか、結衣花の声に後ろから脳天を刺されて、くらつく。自分のことだと直感で分かる。怒りと恥ずかしさで鼻腔が熱くなる。
誰も反応しない。きっと誰にも聞かれていない。そう言い聞かせて、動じない振りで二限目の教科書を机に乗せた。
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