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もうすぐ雨が降りそうだ。生ぬるい風に混じった泥の匂いを感じとって、向坂碧生は空を見上げた。
どこに雨雲があるのかもわからないほど真っ暗な、新月の夜。頼りなく明滅する外灯に群がっていた蛾は、雨宿りのできる場所を探すように散っていく。
碧生は足を速め、アパートまでの道を急いだ。コンビニどころか、自動機ひとつすらない道の先に、ぼんやりと灯りの点いた看板が見えてくる。
音無商店。一ヶ月前までそこは、年老いた男性がひとりで切り盛りする生活雑貨を扱う店だった。
彼が亡くなったあとシャッターはずっと下りたままだと思っていたのだが、最近になってその店が、夜更けから営業していることに気がついた。
通り過ぎざま、碧生の目は吸い寄せられるようにガラス戸の中を覗いていた。
入り口にある会計カウンターには、三十前後とおぼしき男がひとり座っている。袖に折り目のついた白い立ち襟のシャツ、あごで切り揃えられたくせのない黒髪。背筋の伸びた姿勢が整った顔立ちに相まって、決して女性的ではないのに、美しい男という印象を与えている。
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