救い

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救い

三十代半ばのある女が、近くの量販店で買い物をしていた。 実年齢よりも、かなり老けて見える。 口をへの字に曲げ、眉間のシワは戻らない。 髪もバサバサして、Tシャツもヨレヨレになっている。 人相険しく、まるで般若のようである。 狐と鬼がその後をつける。この世のものたちには、彼らの姿は見えない。 だから、堂々とやってのける。 「あの女を神隠しにあわせればよろしいのですな?」 「んだ、よろしく頼む。あのヤロウ、説教してやるからよ」 女は会計を済ませて車で帰路に就く。途中の峠にさしかかった時だった。 「このフェンス、越えて車ごと落ちていったら……あいつらは私にしたことを悔やむんだろうか……」 そんなことが頭をよぎった。 ふと我に返ると、霧が立ち込めてきた。 それはみるみるうちに濃くなり、これ以上進むと危険だった。 先ほど、不吉なことを思ってしまったので、心がざわついた。 「おめ、よほどの強い恨みをもってるべ。」 後部座席から少年の声がしたので、女は飛び上がった。 振り返ってみて、更に跳び跳ねた。 すぐ背後に鬼の子、その両隣に妙な青年たちが座り、じっとこちらを見ていた。 青い袴の装束に、狐のような面を身につけている。 声が出なかった。 金縛りにあっていた。 「おめ、その恨みをずっともっていると、そのうち自分の魂に食い込んでくぞ。 それで、次生まれてくるとき、その呪いも一緒についてくるぞ。 ……苦しいべ。 ……悔しいべ。 まるで黒い炎がからだの内側を全て焼き尽くすみてえだべ。 分かる。 それは痛いほど分かる。 こんなもの、どこさぶつけたらいいか、わかんねえよな。 こっちは誠実な気持ちで答えようとしてるのに、それにつけあがり、向こうは好き放題してきてよ。 放っておいてくれればいいのに、わざわざおめえの心をズタズタにして。 自分は笑ってるんだもんな。 そいつのこと、殺してえよな…… でもよ、そいつを殺したって、やけになって自分が死んでみたって、その先にあるものは、何だと思う?」 少年の荘厳な声が、女の魂に染み込んでいく。 「神さんでも覆せないような大後悔」 青年たちが頷いた。 「おらはそんな奴らをたくさん見てきたけれども、みな一人残らずにこう言うんだ。 『自分が求めていたことはこれじゃない! こんなこと、しなければ良かった!』 ……ってな。 やり直せるものなら、歯ぁ食い縛って耐え抜いた、その先に得るものを見せてやりたかった。 それはな…… 『どんなことにも動じねぇ強い心。そして、本当の優しさ』 …… これだ。 人生終わらせる覚悟があるんなら、どんなことだって、出来る。 自分のことを不幸に追いやる奴らと離れる方法だって、考えればきっと何か手だてはある。 絶対に、他の奴らに振り回されるな! 生き方を決めるのは、自分だ。 おめの信念が揺るぎないものであるならば、たとえ運命にさえも…… 本当の意味で負けることはない」 女の金縛りはいつの間にか解けていた。 涙がとめどなく溢れていく。 声は続く。 「おめが今必要なものは、自信だ。 自分の全てを受け入れて、大事にすることだ。 朝、神棚でも仏壇でもいい。 なければ、夜寝る前の静かな場所で充分だ。 毎日、自分が今日も生き延びられたことに手を合わせて感謝するんだ。 例えそんな気持ちになれないほどの最悪な日だって、泣きながらでいい、言葉を絞り出せ。 それを、一年間頑張って続けてみろ。 だんだんと、欲が消えていく。 そうすれば万事うまくいく。 絶対に……だ。 ほれ、おめえの後ろさ、大きくて真っ黒な風船がついてるべ」 鬼の子が指を指した先には、どす黒くて濁りきった、不気味な物体がゆらゆらと浮かんでいた。 「今な、おめの強い執着が、それと体をくっつけてるんだ。 でもまもなく切れる。 そうして、空さ飛んでいく。 それをな、お(とう)が打ち落とす。 まあ、見てろ」 話し終わらぬうちに、女の背中にくっついていた糸は、プツリと切れた。 風船はふわふわと空に向かった。 雲の近くに差し掛かったその時、稲妻がそれを割った。 外側が破れると、黒い中身は地上の何処かに集合体を成して落ちていった。 「あれが……天罰というものよ…… おめを苛めてた奴らは、おめが受けたのと同じ苦しみをこれから味わう。 相当きついべなぁ…… まあ、楽しみにしとけや」 小鬼は不敵に笑った。 「いろんなものを人は恨む。 魂傷つけられたら、悲しむのは仕方がねえ。 だがな、自分を苦しめるものを思い通りに動かしてえと思うのは、見当違いだ。 そういうことは天に委ねろ。 今の自分から、目を反らすな。 恨むことをやめて、どうしたら今の状況の中で己の心に正直になれるか、日々清々しく暮らせるかだけに集中しろ。 憎しみに身を支配されてしまったら、待ち受けているのは、地獄だぞ……」 片側の青年が 手を挙げて言った。 「んじゃ、そういうことで。 これから頑張っていってくださいねー」 三人は後部座席からフェードアウトしていった。 女が我に返ると、峠の途中だった筈が、いつの間にか霧は晴れて、先ほど買い物に来ていた店の駐車場に戻っていたのだった。
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