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 ──弟がゲイになった。  ゆゆしき事態だ。  ゲイになった、という言い方が正しいのかどうかはよく分からないが、とりあえず男の恋人ができたのには間違いなかった。  普段はなにも考えていないようなのん気な弟が、家庭の事情により自分の部屋に仮住まいを始め、大学を辞めるべきかどうかグダグダと思い悩んだ挙げ句そんなことになって、兄としてはとてつもなく複雑だ。  実家の騒動や弟との同居の愚痴をあれこれこぼしていた友人にそんな結果を報告すれば、バーカウンターの隣に座った友人はなにやら嬉しそうに相槌を打った。 「へえ、弟くんが」 「……なぜ喜ぶ」 「いやだって、つまりそれは基一にも素質があるってことなんじゃない?」  その上、そんなことをほざく。  グラスを傾ける手を止めて、中島基一は思いきり顔を歪めた。 「ゲイは遺伝の問題じゃないから、素質なんて関係ないだろ」 「いや、でも基一もこの機会に一度試したらいいんじゃないかな。新しい世界が開けるかもしれないし」 「アホか。俺は長男だし、家はぐちゃぐちゃだし、きちんと結婚して子どもを作って中島家を継いで支えていくから、そんな新しい世界は必要ない」  真面目だなあ、なんて呟きながら、友人の伊槻享は涼しい顔でグラスを持ち上げた。  仕事帰りに待ち合わせ、まずはどこにでもあるような居酒屋で軽く腹ごしらえをしてから、二人の行きつけのバーに来たところだった。すでにそれなりにアルコールを入れているはずなのに、彼はまったく酔った様子もない。  なのに、口から出てくるのは、そんなバカげたことばかりだ。 「結婚するって決めているなら、なおいいじゃないか。お試しでちょっと遊ぶくらい。基一ほど頑固ならそれで道を外すわけでもないだろうし」 「…………」 「だから一回やってみようよ。俺、うまいよ?」  そして、そう誘ってくる。  彼はゲイだ。基一もそれは知っている。  大学時代からの付き合いは、もう六年近くになる。社会人になった今でも一カ月に一度は顔を合わせる、親友ともいえるような関係だ。いつだったか、ある日ふとした弾みで彼からカムアウトされたのだが、基一はそれ以降もごく普通の友人関係を続けていた。  その間にも、たびたび彼はこうしてふとした拍子に、基一をそっちの道に引き込もうとしてくる。いつも冗談まじりに、なにげなく。  基一は額を押さえて深く息を吐いた。 「おまえのそういうところが最悪にダメだな」  ははっと彼はいつものように笑う。 「またふられたか」  またふられたか、じゃない。顔をしかめて、基一は無言でグラスに口をつける。  ゲイだからといって、差別も軽蔑もする気はない。実際に弟がそうなるのは少し複雑だが、いい大人の主義や性癖に口を出すつもりは全くない。もちろん友人ならなおさらだ。  ――だが、こいつは。  当たり前のような顔をして隣に座り一緒にグラスを傾ける腐れ縁の友人は、あまりにも軽すぎる。なにが一回やってみよう、だ。  基一は会うたびに一度は必ず彼が口にするその言葉を、飽き飽きと受け流す。 「あーあ、いつか基一をがんがんに犯したいなあ」 「やめろ変態」 「俺、一晩で三回以上いかせる自信あるのに」 「――伊槻」  重々しく名前を呼んで、基一は友人の暴走を遮る。  それが合図だったかのように、ふっと彼も小さく笑った。 「そういえば基一、今度さ……」  あっさりと彼は話を変えた。  それはいつも通りのお約束だ。その話はこのあたりで止めよう、という暗黙の了解。共犯的な定型の会話。話を合わせながら、基一は胸のうちで吐息をついた。  だから、おまえはダメなんだ。いつだって言葉遊びで満足している。そんな冗談に付き合ってやれるほど、俺はヒマじゃないんだ。 「来週あたり、どう?」  尋ねられて、顔をあげた。来週あたり一緒に走らないか、という話だった。ランニングは二人の共通の趣味だ。 「来週? ──あ、無理。俺、結婚式だ」 「へえ、誰の」 「高校の友だち」 「ふうん。そっか、俺らもそんな年になるのか。……おまえはどうなの、結婚」  隣を見れば、伊槻が緩やかな笑みを浮かべて基一の方を見ていた。  なんとなくその笑みが気に入らなくて、基一は顔を歪めたが、それ以上は感情を表に出さずに、グラスに手を伸ばした。 「実家の借金返し終えたら、考えるよ」  そうか、と伊槻が呟く。それから空いたグラスをカウンターの前に差し出しながら、基一の方に視線を流した。 「おまえも次、飲むか?」 「――ああ」 「ジントニック?」  ああ、と頷く。そうして半端に途切れた会話に目を伏せて口をつぐみ、やがて新しく差し出されたグラスを、基一は受け取った。同じく二杯目を受け取った伊槻と、乾杯代わりにお互いにグラスを持ち上げてみせてから、口をつける。  自分の好みと性格と習慣をよく把握した友人、親友、腐れ縁。気安く声をかけて酒が飲めて、なんでも話すことができる男。  基一にとって、伊槻はそういう相手だ。  ……相手が、自分のことを同じように思っているかどうかは、聞いたことがない。
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