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弟と会うのは久しぶりだった。
五つ年下の弟である一臣は、一番年が近い兄弟ということに加えて、一つの部屋に同居していた時期があるからか、兄弟の中でもどちらかといえば親しい方だ。といっても長男として、中島四兄弟の一番上に君臨する基一にとっては、どの兄弟もみな同じようにいつまでも年下の弟や妹でしかない。
「おまえ、いい加減、銀行の住所変更ぐらいしろよ」
駅前で待ち合わせて、近くの居酒屋に入り、テーブルを挟んで向き合ったところでそう基一は切り出した。鞄から取り出した手紙類を無造作に差し出す。
ああうん、とあまり気にした様子なく、一臣はそれを受け取っていた。
弟とて会社に勤め始めてもう二年目になるのに、いつまでも学生っぽい印象が拭えない。ウェブ制作会社という話だったか、仕事帰りだというのにチノパンにTシャツというラフな格好をしている一臣を一瞥して、基一は顔をしかめた。
「……働いてるとは思えない格好だな」
「うちはみんなこんな感じだよ。まあ、客先に行くひとはさすがにジャケット着るけど。俺はまだ客先に行ったりしないから」
「きちんと働いてるなら、それでいいが。……母親が心配してたぞ」
そんな会話をしているうちにビールが運ばれてきて、ジョッキの縁を合わせもせずに「おつかれ」と言って基一はビールに口をつけた。そのまま、ごくごくと半分ほど一気に呷る。
冷房の効いた店内にいても、日中の暑さが身体にまとわりついていた。
夏だ。八月の終わりだった。
つい二週間ほど前、基一は夏季休暇で実家に帰省したが、一臣は仕事を理由に帰ってこなかった。それで実家に届いていた一臣宛の重要そうな手紙類を渡すために、基一が弟を呼び出したのだ。会うのは正月以来だ。
「母親が心配ってなに」
「働きすぎで倒れてないかどうか」
「えー、そんなの心配しなくていいのに」
そう母親は心配しつつも、直接メールや電話を息子たちにすることはほとんどない。彼女自身いまなおパートで働いているからなのか、家族とはいえ適度な距離感を保っていて、遠くにいる息子たちを自由にさせている。
そういう親の有難さを本当に分かっているのか、突き出しに箸を伸ばしながら、一臣は首を傾げている。相変わらずのん気な弟だ、と基一は息をついた。
「同居人とはうまくやってんのか」
「えっ? ……あー、うん、まあ、それなりに」
途端にまごついて、ビールジョッキを両手で包んで一臣は顔を伏せた。
弟には、男の恋人がいる。
ちょうど自営業を営んでいた実家が自己破産したころからになるから、その付き合いはもう五年近くになるだろう。
弟の交友関係──しかも性的な関係のことなど、本来基一も全然興味はないのだが、彼らが付き合い始めた当時、自己破産に伴う家庭の事情で、学生だった弟が自分の部屋に転がり込んできていたため、偶然それを知ってしまった。
知ったときは驚いたし、動揺もしたが、それを否定する権利は自分にないので、特に口を出すことなく放置している。
大学を卒業してからは、都内のアパートで一緒に暮らしているらしい、ということまでは聞いていた。ちなみに親には「友人と部屋をシェアしている」と言ってあるようだ。
──うちの子どもたちはみんなバカみたいに真面目で。
どの子も浮いた話を聞かない、と母親は笑った。それから、ごめんね、と謝った。
実家のケーキ屋が自己破産したのは母親のせいじゃない。
二代続く店をやめろと言い出したのは長男の基一で、なかなか承服しない頑固な父親に対して、自己破産しても残る親戚や友人など付き合いの続く関係への借金を自分が返す約束をして、なんとか説き伏せたのも基一だ。
そうして五年前に実家は自己破産をして、経営手腕はなかったのかもしれないが生来真面目で働き者の父親は、付き合いのある青果卸売企業の製菓部門で雇ってもらえることになり、母は近所の惣菜工場にパートに出て、子どもの中で唯一企業勤めをしていた基一が仕送りをして、実家は残った借金を返しつつ、慎ましやかに暮らしている。
二年前から働き出している弟の一臣も、今は基一と同様に実家に仕送りをしていた。
目の前で若鶏の唐揚げを頬張る一臣を見やり、基一はビールジョッキを傾ける。
「……生活費は足りてんのか。おまえ、奨学金の支払いもあるんだろ」
「それ言うなら、兄ちゃんもだろ。大丈夫だよ。二人で住んでると、家賃もそうだけどいろいろ安くつくから、まあ、すごく助かってる」
「そうか」
たとえ相手が男であれ、うまくいっているならそれに越したことはない。
「兄ちゃんは?」
「あ?」
「兄ちゃんはどうなの。えーっと、仕事とかお金とか──彼女とか」
「ああ?」
ドスを効かせた声で問い返すと、うううと言ってあっさりと一臣は口をつぐんでいた。本気で怒っているわけではないが、基一はそんな弟に向かって顔を歪めてみせる。
「生意気なこと聞いてんじゃねえよ」
「でも兄ちゃん、家のこととかばっかで、そういうのなんか後回しにしてそうっていうか」
「バカかおまえ」
落ち着きなく、サラダやら唐揚げやら出し巻き卵やらを皿に盛りながら言う弟の心配を、基一は短く切り捨てた。と、一臣が驚いたように顔をあげる。
「えっ、じゃあ彼女いるの?」
「……おまえにそんなことを言うつもりはない」
「えー、兄ちゃんは俺のプライベート知ってるくせに」
不満げに一臣がそう言ったが、基一は相手にせずビールを呷った。
実際には今現在、彼女はいなかった。だが家庭の事情云々で後回しにしているわけじゃない。ただ、単純に向いてないだけだ。気持ちがそっちの方に。
「でもさあ、兄ちゃん」
酒を飲んでいるときはほとんど食べない基一が、挨拶程度に取った一切れの出し巻き卵を箸で細切れにしていると、また一臣がそんなふうに呼びかけてきて、基一は顔を上げた。
「来年になったら一海も就職するだろ。そしたら、借金返済の分担、兄ちゃんもうちょっと軽くしたらどうかな。だってずっと給料の半分くらい仕送りしてるんだろ?」
「さすがに半分はしてねえよ」
だが半分近くを仕送りに回しているのは事実だ。
「でも、とにかく兄ちゃんひとりでそんなに頑張らなくてもいいっていうか」
弟の一臣は、ぼんやりしていてのん気でマイペースで、勉強はできるけどバカで。
だけど、素直ないい子だ。
基一は笑った。
「だからおまえが心配すんなって。どうせ借金はもうあとちょっとしかないしな」
「えっ、そうなの!?」
「夏帰ったときに計算したら、あと五十万ほどだったからな。来月ぐらいには残りまとめて返して、もう終わりだ」
「そっか、良かったあ!」
一臣が素直に、大仰に喜ぶ。
そう、これは良い話のはずだった。五年前から──いや、実際はその前から、仕送りを含め、いろんな意味で背負い続けてきたものが終わるのだ。
だが基一の胸にあるのは、奇妙な空虚感だった。もちろん嬉しくないわけじゃないのだが、実感がない、というべきか、なぜか気持ちが浮かない。
「兄ちゃん、全部終わったらさ、みんなで温泉とか行こうよ」
「はあ? なんだよそれ、気持ち悪ぃ」
弟の無邪気な提案に、基一は顔を歪めてみせた。
……たとえ自分の責任じゃなくても、背負わないといけないものはある。
そこには、いろんな原因だとか条件だとかしがらみだとか愛情だとかがあって、どれだけバカバカしかろうが前時代的であろうが、それをすべて捨て去ることはできない。
実家の借金を返し終えたら、その次は──。
目の前でどこか浮かれた様子で箸を動かす弟に「もっと食えよ」と唐揚げを押しつけて、基一はビールを呷った。
「──へえ、弟くんと会ったんだ。相変わらず仲の良い兄弟だな」
隣を走っている伊槻がそう言った。
堀を左手に見ながら、二人で並んで緩やかな下り坂を走っているところだった。
十月半ばの早朝の空はぼんやりと明るく、涼やかな気温に包まれている。
都下で人気のランニングコースも、土曜のランニングステーションが開いてすぐの時間帯は想像していたほどの混雑ではなかった。それでも走っている人の数は多く、のんびり走る基一と伊槻の二人組を追い越していくランナーの姿が絶えない。
「別に仲良くねえよ、単なる所用だから」
「盆休みも実家帰っていたんだろ」
「……まあな」
ほら仲良いじゃん、と隣で伊槻が笑う。相変わらずの穏やかさで。
伊槻とは一緒に飲むだけでなく、こうしてときどき一緒に走っていた。二人ともタイムより長く走ることを目的にしていて、基本的に走るスピードはときどき隣と言葉を交わせる程度のものだ。そんなところで気が合うから、他の趣味や仕事が違っても居心地が良い。
「弟くんってあれだっけ。昔、彼氏ができたって言ってた子?」
「そう、それ。今は同棲してる」
「すごいな、ずっと続いてるのか。うらやましいな。俺もそうなりたいくらいだ」
「……おい、俺はおまえの恋話なんて聞く気ないぞ」
「なんだ冷たいな、基一は。入れさせてくれないなら、せめて俺の恋話くらい聞いてくれたっていいのに」
会話の途中にそういう冗談を差し込むのも相変わらずだ。
基一は呆れて、一定のリズムで繰り返す呼吸の合間に、ため息を洩らす。
「おまえの欠点はすぐそういう下世話なことを言うところだ」
「これでも言い方には気をつけてるつもりだけど」
「言い方?」
「俺のマグナムを、とかは言ってないだろ」
あまりにくだらない古典的な表現に、つい基一はふき出していた。笑いの衝動に抑えきれずに腹を抱えて、足がもつれる。
「バカッ、走ってる最中に、笑わせるなって!」
「まさか俺のマグナムがそんなに喜んでもらえるとは思っていなかったな」
「誰が喜んでるっていうんだ、誰が」
さらっとした顔でこんなバカなことを言っている男が弁護士だというのだから、まったく末恐ろしい。
バランスを崩しかけた身体をなんとか取り戻して、基一は走ることに意識を戻した。
──伊槻享とは、大学のサークルで出会った。
金がかからなくて身体を動かせるサークルを、と基一が選んだのはランニングサークルだったが、所属してみれば内情は走ることより遊ぶことが主体のサークルで、そうしたイベントには一切参加せずに先輩からランニングコースの情報だけを仕入れて、ひとりランニングに勤しんでいたら、いつのまに隣で伊槻が走るようになっていたのだ。
同じ大学だったが、基一は経済学部で、伊槻は法学部だった。
出会った当初から頭がいいんだろうなとは思っていたが、さして勉強しているようにも見えないのに、涼しい顔をして法科大学院に行き、そのまま一発で司法試験に受かっていた。そして気づいたらいつのまにか弁護士になって、大手事務所に就職していた。
彼はいつだって冷静で、落ち着いている。よく周りを見ているし、基本的に中立で、意見を述べるときは論理的で、誰かに足をすくわれるようなことはしない──はずなのだが。
「俺はおまえがいつかセクハラで訴えられるんじゃないか心配だ」
「大丈夫だよ、こんなこと基一にしか言ってない」
あっさりとそう伊槻が言う。そういう問題じゃない、と基一は顔をしかめたが、実際にきっとそうなのだろうと思って、結局は黙った。
伊槻が自分はゲイなのだと告白したのは基一にだけだ。少なくとも共通の他の友人たちには言っていない。そして自分もまた、実家の破産や借金の話は彼にしかしていなかった。
それはつまり、親友だと信頼しているからカムアウトしたということなのか。
「……なあ基一、兄弟で会ってどんな話するの」
休まずコースの三週目に入ったところで、ふと伊槻がそう口を開いた。
ゆっくり走っているとはいえ、十キロを超えてくると、さすがにしゃべることがしんどくなってきて、会話は随分間のあいたものになる。
「別に普通。飯食ってるか、とか、同居人とうまくやってるか、とか」
「なにそれ尋問かよ」
「ほかに、家族の近況とか」
夏に帰ったときに家族がどうだったか、とかそんな話だ。
特別なことはないけれど、下の妹と弟がいる実家に数日間いれば、それなりに話題になるようなことは出てくる。妹のバイトで起こった小さな事件や弟の部活での活躍や、母親の仕事先でのちょっとした失敗談や、そんないろいろなことだ。
多分、中島家はわりと家族仲が良い方なのだろう、と思う。ケンカや言い合いもするし、気が喰わないことも多々あるが、帰るとみんな話をしたがる。
不意に思いついて基一は口を開いていた。
「……おまえは実家とかどうしてるんだ」
「ああ、俺、カミングアウトと同時にほとんど実家と縁を切ってるから」
なんでもないことのようにさらりと、伊槻が言う。お互いに前を向いて走っていて、伊槻がどんな顔をしているのか分からず、基一も平淡な声で「そうか」とだけ返した。
彼は知っている。分かっている。
家族を。
帰省中に「いい人いないの?」と軽い調子で母親に聞かれて、基一は肩をすくめた。
──ごめんね、基一。あんた今まで全然貯金できてないでしょ。これからは自分のために、きちんとお金貯めて。
──それで、結婚とかもそのうち。
二十八歳だ。〝いい人〟がいてもおかしくない年齢で、社会的に晩婚化しているとはいえ結婚をしてもおかしくない年齢で、実際に周りにいる友人たちには、カノジョだとか恋人だとか婚約者だとか伴侶だとかそういう誰かがいたりする。
だが基一にはいない。そんな誰かを得られる気がしない。得ようとする気にならない。
話の流れで母が問うた。
──見合い、する?
当たり前のようにそう問うた。地元ではその年齢で見合いも、普通にある話だ。社会人になって仕事をしてお金を稼ぎ、結婚をして子どもをつくって家を建てて、子どもを育てて、そのうちに親の介護をして──そんな生物的にも社会的にも外れない、正しい当たり前の家族観の話だ。その価値観を、基一も享受する。
空が遠い、とふと基一は思った。薄い碧空が眩しくて、目を細める。
「陽射し、出てきたな」
隣を走る男に、呟くように話しかけた。もっと他に話しかけるべきことがあるような気がしたけれど、他に言葉が出てこなかった。
「もう上がる? もう一周する?」
「……あー、もう一周」
同じ気持ちだったのか、基一の返事を聞いて、伊槻が小さく笑った。
一定のスピードで、隣を走る。その距離を心地好いと思うのに、永遠には走り続けることはできないのだということは、とっくの昔に基一も気づいていた。
家に帰ったら、母親から郵便物が届いていた。
その大きさと薄さから、すぐに基一は中身の想像がついて、ついたからこそ開く気にならず、ため息を吐くと同時にそれをローテーブルの上に投げ出した。
心地良く晴れた秋の日に、朝から気の合う友人と走りに行き、ランニングステーションで汗を流し、ランチで昼からビールを飲んで、街歩きで軽く酔いを醒ましてから、部屋に戻る──休みの一日としては、いい一日だ。
本当ならこのまま、気持ちのいい一日のまま終えたかった。
だが一度手に取ったものを見なかったふりをして放置できる性格でもなく、シャワーを浴びて冷蔵庫からビールを取り出しながら、結局基一はそれに手を伸ばしていた。
中身は、正式な釣り書きではなかったが、見合い相手の経歴書と写真だった。
母からの短い手紙では「会ってみますか? その気があるなら、待ち合わせ場所と時間を決めますから、来月の都合の良い日時を教えてください」とある。
「…………」
せっかちなのは母親の性分か、それとも田舎の地域性か。
確かに実家の借金は今月で返し終えた。だが、貯金はほとんどないし、無利子とはいえ奨学金の返済も残っている。それでも早く結婚したほうがいい、という考えが親には多分根っこのところにあるのだろう。
もちろん基一も一回や二回の見合いで、すぐ結婚相手が見つかると思っているわけでもないし、借金を返し終えたからといって突然散財を始める気もなく、できる限り早く奨学金も返済するつもりだが。
ひと通り目を通した経歴書と写真を、基一はローテーブルに放り出すと、フロアソファーに身体を沈めた。
母親に「見合いをする?」と聞かれて、「いいよ」と頷いたのは自分だ。
きっと自分に恋愛はできないだろうと思った。
今まで基一がした恋愛らしい恋愛といえば、大学生のときの一回きりだ。同じクラスの女の子で、落ち着いた感じの優しい子でなんとなく気が合って、好きだと思った。打ち上げの帰り道に手をつないだときは、心臓が痛いほど高鳴って喉がからからになって、緊張してうまくしゃべれなかった。そうやって付き合いが始まって、三年間一緒にいた。
金がなくてバイトばかりでまともなデートもしない男相手によく耐えたな、と別れてから基一は思った。別れたきっかけは、就職活動と家庭のゴタゴタの二重苦で彼女を放置しすぎたからで、要するに最終的には耐えられなかったということなのだろうが。
あれ以来、付き合った彼女がいなかったわけではないけれど、もう三十歳も間近になって、今まで以上に心が動くようなことがあるように思えない。女性が苦手なわけでも嫌いなわけでもないが、ただ自分にはもう恋愛なんて無理なのだと自覚している。
だから「いいよ」と言った。
そして、母親から見合い相手の釣り書きが届いた。
当然の帰結だ。
基一はソファの隅に放り出してあった携帯を手に取った。たとえ胸の奥がもやもやしていたとしても、釣り書きを手にした今なにか返事をしなければ、きっと一週間以上放置してしまうだろう。
「────」
携帯を見れば、いつのまにかメールが着信していた。シャワーを浴びている間に入っていたらしいそれが伊槻からだと気がついて、基一は顔をしかめた。
『聞き忘れた。青梅マラソン申し込んだ?』
彼らしい簡潔なメールに、つい笑みがこぼれた。
返事は決まっていた。まだ申し込んでない、おまえが走るなら申し込むよ──。
「…………」
だが、基一は返事を打たずに、電話帳から母親の電話番号を呼び出していた。
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