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仕事は、嫌いじゃない。
会社は三百人規模の中堅企業で、もう六年も働いていれば会社のいいところも悪いところも見えてくるが、ひとまず業績は安定していているし、無能な上司はいてもモンスター上司はおらず、どちらかといえば雰囲気の落ち着いた、良い会社だと思う。
営業仕事は成績が評価に直結するし、大変ではあるが、一方でやりがいもある。
そうして毎日仕事をして、繁忙期には残業もして、一人暮らしの部屋に帰り、自分で飯を作って風呂に入って寝て、そして起きて、また会社に行く。
そういう変化のない日常は、嫌いじゃなかった。
ときどき会社帰りに伊槻と飲みに行き、休日にはたまに走りに行ければ、それで充分に楽しい。他にも会社の同僚との付き合いもあるし、見合いもあるし、一年に数回ぐらいの頻度で友人の結婚式もあるし、やるべきことはいろいろある。そんなことをこなしていれば、時間はあっという間に過ぎ去っていく。
気がつくと、冬が過ぎ、春が来て、基一は二十九歳を数えていた。
「やっぱりこの年になると増えるよな、結婚式」
隣からそんな声が聞こえて、基一は顔を上げた。
仕立ての良いスーツに身を包んだ伊槻がそこにいた。自分の着ているこの一張羅の倍の値段はするんじゃないだろうか、なんて彼を眺めて基一は思う。自分より身長は少し高いだけだが、スタイルがいいから、デザイン性の高いスーツでもよく似合う。
場所は新宿にあるホテルの上階にあるバンケットの一室だった。その片隅で二人はグラスを片手に立っている。
会場の端に長机が連なり、その上にはさまざまな料理が並べられている。正面奥にはひな壇、中央には丸テーブルがいくつも並んでいて、着飾った多くの男女が小皿やグラスを手に歓談している。──いわゆる結婚式の二次会だ。
主役の一人である新郎は大学のサークル仲間の同級生で、新婦がサークルの後輩だということもあって、もともと同じサークルでもそこまで親しくしていなかったが、基一と伊槻の二人とも二次会に招待されたのだった。
伊槻の呟きに基一は深く頷いた。
「だな。俺、今年、披露宴だけであと二つ予定してる」
「今日は二次会だけだからいいけど、披露宴に二つも三つも参加したらご祝儀貧乏にもなるよな」
「稼いでる弁護士が言ってんじゃねえよ」
基一の軽口に伊槻は軽く笑う。
二次会ももう終わりにさしかかっていた。お祝いムードも最高潮に高まろうとしている賑やかな会場で、祝う気がないわけではないが、二人はつい隅の方に陣取ってしまっている。それというのも中盤のクイズイベントで、テーブルが一緒になった新婦友人の女の子たちに、ちょっとしたきっかけで伊槻が弁護士だと知られ、予想以上に食いつかれて、伊槻が辟易してしまったからだった。
にこやかな笑顔を浮かべながら、基一を引っ張って席を外し、二人になったところで伊槻は「女子の集団は苦手」と息を吐いた。
このルックス、このスタイル、この物腰で弁護士なのだ。モテないわけがない。
案の定、二次会の閉幕が告げられた途端、さきほど言葉を交わした女の子たちが二人を見つけて歩み寄ってきた。だが伊槻に直接話かけるのは気恥ずかしいのか、その隣に立つ基一の方を見上げてくる。
「お二人は、三次会行きます?」
春らしく愛らしいピンクのワンピースに身を包んだ女の子に問われて、つい基一は伊槻と顔を合わせた。言葉にしなくてもお互いの意思は分かった。
「いや、俺たちはここで」
「ええー、そうなんですかー? じゃあ私たちも三次会行くのやめようかなあ」
「…………」
なぜ「じゃあ、私たちも」になるのか。その言葉の向こうに見え透く短絡的な意図に、基一は苦笑を洩らす。彼女たちが三次会に行くのをやめたところで、当然こちらには一緒に行動する気がないのだが、そういうのは口にしないと伝わらないらしい。
仕方なく基一が言葉を選んで口を開こうとしたそのとき、不意に伊槻が基一の肩を引き寄せた。「あ?」と訝しく顔を上げた先で、伊槻がにっこりと女の子たちに最上級の笑みを浮かべてみせる。
「ごめんね、俺たちこれから二人だけで楽しむ予定だから」
「────おま」
なに言ってるんだ、と基一が反論するより先に、伊槻は強引に肩を抱いたまま、基一を会場の外へ連れ出していた。……その途中、なぜか背中で「きゃああ」と黄色い声が上がったように思えたのは気のせいか。
会場出口でミニプレゼントを配っていた新郎新婦への挨拶もそこそこに、ホテルのロビーまで移動させられて、さすがに呆れて基一は肩に回る友人の腕を跳ねのけた。
「伊槻、おまえの冗談に巻き込むなよ。あの子たちが本気にしたらどうするんだ」
「なに、基一はあの子たちと三次会、行きたかったの?」
「そういうことじゃなくて。おまえの女避けに俺を利用するなっつってんだよ」
伊槻のああいう冗談は、彼を知っている自分だから突っ込めたり楽しめたりするわけで、なにも知らない他人を前に言われるのは気に入らなかった。まあ、あの程度で本当のセクシャルマイノリティだと思う人もいないとは基一も分かっているし、あれ以上女の子たちと言葉の駆け引きをしないで済んだことにも有難く思っていたが。
ともあれ今日のメインイベントが終わったということで、基一はほっと息をついた。
「しかし、なんか微妙に腹減ったな。なんか軽く食って帰ろうぜ」
「……基一は意外に鈍感だよね」
「は?」
飯の誘いの返答には程遠い言葉が返ってきて、さっさとホテルの出口に向かって歩き始めていた基一は足を止めて背中を振り返っている。
ぽかんとした基一の顔を見て、なぜか伊槻は不満げに顔をしかめてから歩き出した。
「さっきの女の子は俺狙いじゃなくて、基一狙いだろ。──行こう。なに食う?」
「肉、と酒。……あのな、俺のわけがないだろ」
「わけがないって言い切る意味が分からない。まあ、基一がそう思いたいならそれでいいけど。焼き鳥、焼肉、串揚げ屋あたり?」
「…………串揚げ屋」
なんとなく言い負かされた気分で、基一はそれだけを返していた。
自分がもてないのは事実だ、と基一は思う。
変化の乏しい日常で新しい出会いがないのも確かだが、実際に今まで女性からアプローチされたことなど数えるほどしかない。まあ、女性にモテたいと思ったのは高校生ぐらいまでで、モテないからといって特に問題を感じていないが。
……モテたところで、なにがある?
その先に。
「意外に基一は自己評価が低い」
串揚げ屋に入って狭い店内のカウンターの隅に二人並び、適当に頼んで適度に腹がくちくなったころに、伊槻がそんなことを言い出した。
焼酎ロックの入ったグラスを傾けながら、基一は顔をしかめた。
「なんだよ、さっきの続きか。だって、あの子たちはもともとおまえに」
「さっきの話だけじゃなくて。……もったいないよ、そうやってもてないって言って、そういうのから遠ざかるの」
大きなお世話だ、と思った。さっきはおまえの方から女の子を俺から遠ざけたくせに、とも思う。だけど、そんな文句を言うのもなにか違う気がして、結局むっと唇を曲げて、基一は「放っておけ」とだけ唸った。
それで伊槻も自分の発言が基一の機嫌を損ねたと気がついたのだろう。少し黙ったあと、いつものようにさりげなく話を変えた。
「そういえば、最近、兄弟はどうしてるの。弟さんは元気?」
「弟? さあ、どうだろうな、正月会ったときは相変わらずだったけど」
つい普通に答えてから、ふと基一は顔をあげた。
隣を見やればまっすぐに目が合って、「ん?」と伊槻が首を傾げてみせる。
「……おまえって、俺の兄弟の話、聞くの好きだよな」
よくよく考えれば、基一が自分から家族の苦労話を話す以上に、伊槻に話をねだられている気がする。思いついたことを言えば、彼自身も今気づいたかのように目を瞬かせた。
「ああ、確かにそうかも。基一の家族ってさ、なんかバラエティに富んでて、聞いてると面白いんだよ。あと、基一が長男やってるのを聞くのが好きなのかもな」
「なんだそれ」
「口が悪くて横暴な兄に見せかけて、本当はすごく気にかけて世話を焼いてるだろ。基一のそういう長男っぽいところ、良いんだよな」
「やめろ褒めるな、気持ち悪い」
気恥ずかしさが勝って露悪気味に言って、基一は顔を歪めた。ときどき伊槻は歯が浮くようなことを恥ずかしげもなく言うから、たちが悪い。
基一の言い様に、伊槻は軽く笑った。
「実際に長男だろ、中島四兄弟の。──四兄弟でよかったよな?」
「四兄弟。弟二人と妹一人。ああ、とりあえず妹が四月から働き始めた」
「ほら、そういう感じが長男だっていうの」
「どういう感じがだよ」
よく分からない。顔をしかめると、伊槻は笑った。
「確か妹さんは公立短大に行ったとか言ってたっけ。つくづく中島家は子どもたちが強いよな。例の、返済は順調?」
一瞬、基一は黙った。その間を悟られないように、なんでもない声を出す。
「ああ、借金は去年返し終えたよ」
「へえ。……良かったな」
同じくらいなんでもないような声の相槌を、基一は振り返る。ちらりと目が合った。
伊槻はグラスを持ち上げるようにして見せる。
「おめでとう」
借金を返し終えたら考える。
結婚について基一がそう言ったのは何年も前のことだ。だが、それを伊槻も覚えているはずだった。やっぱりなにも言わないんだな、と基一は思った。いや、でもそれが正しいのだ。それで正しいのだ。
……もし、見合いをしてるんだ、と言ったら、伊槻はどうするのだろう。
いや、どうもしない。俺たちはそんな関係じゃない。少し驚き、だがいつものように微笑んで、彼は「そうか」とでも言うだろう。それからきっと。からかい気味に様子を尋ね、なんでもない顔で心のないエールを送るだろう。なにも変わらない、ただ、それだけだ。
「そういえば、さっき田上が言ってたんだけどさ──」
だが、先に話題を変えたのは基一だった。
告げたところでなにも変わらないのだということを確認するのが嫌だったのか、それとも万が一変わってしまうことが恐ろしかったのか。
基一の話を聞きながら、伊槻がどこかほっとしたようにやわらかく微笑む。
今このとき、きっと二人は暗黙の共犯者だった。
年を取れば取るほど、時間が流れるスピードが速く感じられる。
あっという間に夏が基一を追い越して、いつのまにか秋が去っていき、家族とともに正月を過ごし、一年が過ぎた。その間に、基一は片手では数えきれない数の相手と見合いをした。不思議なもので一度見合いをすると、なぜか話が次々とやってくる。
いろんな女性がいた。年齢も職業も容姿も会話も、みんな違った。営業をしている基一でさえ会話が一切弾まない相手もいれば、会話が途切れず盛り上がったというのに一回目で断られたこともあった。貴重な休みを見合いに費やすことに、基一自身が苛立つこともあった。もし、そうして基一が見合いをしていることを一臣が知ったら、きっと「なんでそうまで見合いするの?」と不思議そうに目を丸くしたことだろう。もしかしたら、妹の一海や末の弟の一行も同じように不思議に思うかもしれない。
──なぜ、そこまで?
だが、その問いに明確な答えなんてない。なんとなく、そうであるべきだと思うからだ。今どき長男だとか家を継ぐとか古臭い考えだと言われても、胸の奥にひっかかる家族への責務がずきずきと疼き続けるからだ。自分ではどうすることもできないものが、自分の身体に棲みついているからだ。
そうしているうちに、基一はひとりの女性と出会った。
そして、三十歳の夏が過ぎた。
──秋は、走るのにちょうどいい季節だ。
この夏はお互いに忙しくて予定が合わず、伊槻と一緒に走るのは久しぶりだった。いつものようにコースが本格的に混雑し始めるより早い時間帯に待ち合わせると、伊槻は相変わらず涼しげな顔でやってきて、基一を見つけて軽く笑んだ。
ああ、と基一もそれに応えたが、目ざとく伊槻は首を傾げた。
「どうした、なんか疲れてる?」
「なんだよそれ」
とりあえず走り始めながら、基一はなるべく軽く聞こえるように、問い返した。
天気は曇り空だったが、夏の名残りがまだ大気にしがみついているようで、九月の半ばを過ぎているのにじわりと暑い。それでも夏の盛りよりはずっとましだ。
……今年の夏は暑かった。
「なんだか、くたびれてるって感じがするな。仕事、忙しかったのか」
本当に伊槻はいやになるほど自分を熟知している。基一は規則的な呼吸にため息をもぐりこませた。
「仕事というか、まあ、いろいろだな」
「家のことか。なんかあったのか」
「──ああ、父親が検査入院したよ。今すぐどうこうって問題はなかったけどな」
この夏の帰省は大混乱だった。
久しぶりに兄弟が全員そろった。それは本来なら家族として喜ばしいことだったはずなのに、基一が見合いをしていることを知った一臣が驚き、その話題の中でうっかり自分から男と付き合っていることを家族にカムアウトした。父親は怒りのあまり目眩を起こして倒れかけ、長年の高血圧も心配になって検査入院をすれば、頭の中に動脈瘤が見つかった。まだ小さく、すぐに破裂したりするようなものではなかったが、いずれ時期を見て手術をすることになるだろう。
事情を手短に話せば、そうか、と伊槻は頷いた。
「それはなかなかハードな夏だったな。おつかれさま」
昔から、過剰な気遣いやお節介をしないのが、彼だ。きちんと話を聞いてくれるが、決して踏み込みすぎない。……そう、いつだって、深くは踏み込まない。
「まあ、親もいい年だからな」
眼差しを伏せれば、一定の歩幅で蹴るアスファルトの色が暗い。曇り空の下では、コースに沿って見える緑もどこか薄暗かった。
父親はもう六十だ。短期で頑固で古臭い父とは、ずっとぶつかってきたばかりだった。本当にひどかった時期にはお互いに声を荒げ、罵倒し合い、母が泣いて止めに入ったこともあった。今だって正直いえば、好きにはなれない。それでも、父だった。嫌になるぐらいに、家族なのだと思い知らされた。
捨てることのできない、家族なのだと。
「……伊槻」
緩やかな下り坂を駆け降りながら、基一は隣を走る友人を呼んだ。なに、と落ち着いた呼吸の狭間から、穏やかな声が返る。
一瞬だけ、目を閉じた。
「俺、結婚するよ」
まっすぐ前を向いて、基一は言った。その言葉を発するまで、どれだけの力が必要だったかしれない。冷静に、なにげなく、声を震わせることもなく、当たり前のことのように言おうと決めていた。
「来年、……多分、夏には」
「────」
伊槻が完全に言葉を失った。まっすぐに前を向いて、伊槻の反応を視界に入れないようにしていた基一は静かに息を吐き出して、それから顔を上げる。
彼の足が徐々に緩やかになり、やがて止まった。遅れて、基一も足を止めた。数メートル先から、呆然と立ち止まっている友人を振り返る。半周走っている間にじわりとかき始めていた汗が粒となって頬を垂れたのがわかった。
基一は強張る頬を歪めて、なんとか笑みに似た表情をつくった。
「いきなり止まってんじゃねえよ、迷惑だろ」
自分を見返しているはずの伊槻の目が、どこを見ているのかわからない。重い足を動かして、基一はゆっくりと友人のほうへ歩み寄った。
「おめでとうぐらい言わないのかよ、それが礼儀ってものだろ」
それでもなお伊槻はなにも言わなかった。彼らしく──弁護士らしく、彼は衝動で言葉を発したりはしなかった。やがて、うつむきがちに汗をぬぐうようにTシャツの肩を口元に当てて、それから眼差しを基一に向けた。
「……お祝いを、言えっていうのか、俺に」
声は低く、基一の胸に刺さった。
「おまえが結婚をするって聞いて、俺が、そうかおめでとう、と言うと思ったのか」
言うかもしれない、と思ったのは事実だ。そうやって軽く流すのか、呆然とするのか、怒るのか。伊槻がどんな反応をするのか、基一にはどれだけ想像してもわからなかった。
──だって、おまえは今までなにも言わなかっただろ。
だから、今回だって流されるのではないかと思ってもおかしくないじゃないか。
「別に、祝いの言葉じゃなくてもいい。でも、なんかあるだろ。なんか言うことが」
「……おまえの結婚について?」
眼差しを伏せて、嘲るように唇を歪める。伊槻の反応に、基一はむっとした。
「なんだよ。おまえは、彼女がいないからって俺が結婚しないと思ったのか? 言っただろ。俺は中島家の長男で、家を継ぎ、いずれ両親の面倒も見なくちゃいけない。家族の義務がある。俺がいつか結婚するっていうのは、わかっていたことだろ」
「いつか? いつかじゃなくて一年後なんだろ」
「伊槻」
ギリギリと胃を締めつけるような冷たく重い空気に、基一は苦しく顔をしかめる。
ようやく我に返ったように伊槻は視線をそらすと、立ち尽くしていたコースの真ん中から脇のほうへ寄った。あとに続く基一に背中を向けたまま、呟くように返す。
「ああ、わかってたよ。いつかおまえが結婚することは、よくわかっていた。俺がわかっているってことは、おまえもよくわかってただろ」
「伊槻」
「だから、おまえはなにも言わなかったんだ。今まで、結婚を決めるまで、なにも」
「────」
そうだ。言えなかった。どうしても言えなかった。
お互いに見て見ぬふりをしてきたものを直視したくなかった。本当にどうしようもなくなる瀬戸際まで、今までどおりでいたかった。こうやって一緒に走ったり、一緒に酒を飲み交わしたり、そういうのをずっと続けていたかった。
言えば、全部なくなると、わかっていたから。
「結婚か」
短い言葉に嘲りがまじる。
空が重い。今にも雨が降り出しそうだ。
「……黙っていたことは、謝る」
「どうでもいいよ、そんなこと。なあ、いつから、付き合ってた。もう結納は済ませたのか。婚約指輪は買ったのか」
「まだだ。指輪も結納も。……春先に見合いをした。しばらくして結婚を前提にして付き合うようになって、それで」
何人もの女性と見合いをして、二回会ったことのある人は数人いたが、お互いに三回目を望んだのは彼女だけだった。その三回目に、結婚を前提で付き合うことになった。
……熱烈ななにかがあったわけではない。妥協ということでもない。不思議に、寄り添うという感覚で、基一は彼女と一緒にいるようになった。たぶん感覚が似ていたのだ。たとえば家族観。たとえば仕事観。たとえば穏やかさ。
恋愛のような情熱はなかったが、彼女となら家庭をつくれる、と基一は思った。彼女もきっとそう思ったのだ。だから──。
「……年末に結納をして、夏には式をあげようって」
「じゃあ、婚約の証拠はないな」
「なに?」
視線をそらして言葉を交わしていた基一は、思わず友人を振り返っていた。
伊槻が今まで見たことのないような暗い眼差しを返してくる。
「おまえはこうと決めたら、誰がなにを言ったって、絶対に翻さない。俺なんかの言葉で結婚を止めたりしない。よくわかってる。……だから、おまえが望むなら、お祝いの言葉でもスピーチでもなんでもやるから、その代わり、俺の望みをひとつだけ聞いてくれ」
「────」
やめろ、と基一は思った。今さらじゃないか。なんでそんなことを言おうとする。その先は言わないでくれ。これ以上、壊さないでくれ。
だが、伊槻は続けた。
「一日でいい。二十四時間だけでいい。俺に、おまえをくれ」
──一日でいい、なんて。
「何度言えばわかるんだよ。俺はおまえのくだらない冗談に付き合う気はないんだ」
「冗談じゃないと言ったら、おまえは付き合ってくれるのか。本気だったら、おまえは結婚をやめるのか」
「伊槻」
もう遅いんだ、と基一は叫びたかった。おまえはずっとなにも言わなかった。一度も本気でその胸を明かさなかった。たとえ、おまえの気持ちが本物だとしても、もうダメなんだ。もう遅い──。
けれど、伊槻は食い下がった。
「結婚するなとは言わない。せめて俺にくれよ。おまえの人生の、ほんの一瞬でもいいから。冗談なんかじゃない、本気だよ。本気なら、俺に付き合ってくれるんだろ?」
「……伊槻」
初めてだった。こんなふうに真摯に伊槻が縋りついてきたのは初めてだ。
そして、馬鹿だと思った。今さらそんなことを言う伊槻のことを。
基一は苦しく目を閉じた。
「──分かった。俺の二十四時間、おまえにやるよ。その日一日は、おまえだけにくれてやる」
「それでいい」
……一生のうちの二十四時間だけで、満足するのか。
本当に馬鹿だと思った。──今さらなのに、そんな伊槻を跳ねのけられない自分のことも。
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