ビター&スウィート

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 ボウルにバターをあけて、木べらで潰していく。  柔らかくなったら、砂糖を。いつもは三温糖の独特のコクを好むが、今日は強烈なくらいはっきりした甘さのグラニュー糖を使う。溶き卵を少しずつ入れて混ぜ、バニラエッセンスを垂らし、小麦粉と風味付けのアーモンドプードルを篩う。緩めに仕上げた生地を、星型の口金を付けた絞り袋に入れる。子供時代に母についてままごとのように作ったクッキーが原体験だからか、いまだにスプーンで落としたり、型で抜いたりすることが多く、絞り出しはどことなく特別な感覚がある。  円形に絞り出した生地の上に、ドレンチェリーを乗せていく。砂糖漬けの、おもちゃの宝石のように鮮やかな緑色をしたさくらんぼだ。エメラルド、ペリドット――いや、翡翠がいい。一粒摘み上げて光にかざすと、ゆらりときらめく。それがあの夏の木漏れ日のようで切なくて、また揺れて――ああ、いつから泣いていたんだろう。 「しぃちゃん、また開けっ放し――」  一週間ぶりに聞く、低く穏やかな声。持ち主は一人しかいない。  近づいてくる足音は、もう、すぐ後ろだ。慌てて目元を拭おうとして、ドレンチェリーを落とす。足元に転がったそれを拾うことはできず、俊恵に強く肩を掴まれた。 「なんで泣いてるの?」  見られたとしてもほんの一瞬だったはずなのに、問い掛けは断定的だった。  目元を隠そうとした手も剥がされ、むき出しになった両目をじっと覗き込まれる。耐えられず、志信はきつく目を瞑った。 「どうしたの?」  黙秘は許されない。 「俺には言えないこと?」  いつもの、子供っぽい嫉妬含みの声色。その嫉妬の矛先は彼自身に向いているのだと、いっそ知らせてしまおうか。  大粒の涙が溢れ出た感覚はあった。しかしそれは、頬を伝って落ちる前に、柔らかく吸い取られる。布の感触ではない、人肌とも少し違う、吸いついたのはたぶん唇で――驚いて目を開ける。俊恵はうっとりと笑っていた。混乱する志信の両頬を手で包み、また、目尻の涙を吸う。 「俊、なにして……」  擦れた声、はっきりと自分の声帯を震わせた感覚は、現実だ。目の前の整った眉目が強張り、両頬を包む手が緩む。 「しぃちゃん……今、起きてる?」 「なに、言って」 「ごめん」  体温が遠のく。 「俊?」  今度は俊恵が黙る番で、やはり自分もそれを許さず、法衣の裾を掴んだ。 「俊、今の、どういうこと?」 「ごめん」  彼もまた、泣き出しそうな顔をしている。 「……ごめん」  何度もそれだけ繰り返して、俊恵はやがて、弱々しく呟いた。 「前にさ、夜中に寝ぼけて俺に電話したことあったでしょ」 「うん」 「気付かなかったって言ったけど、あれ、嘘なんだ」 「嘘?」  まさか。 「うん。あの日ね、しぃちゃん、電話で泣きながら俺に会いたいって言って。俺、急いで原付飛ばしてここに来て。しぃちゃんはなんていうか、その、ちょうど今みたいにいつもと違って。俺はそれ見て理性なくして……しぃちゃんのこと、押し倒して」  それは、ひどくおぼろげながら、最初に見た妖しい夢だった。 「俺達……したの?」 「触っただけだよ。でもさ、それだって大事件じゃん。なのに次の日、しぃちゃんはそのこと憶えてなくて……俺もう拍子抜けしてさ。時々夢遊病っぽくなるって話してくれてたけど、こんなこと、って。でも、憶えてないならそのほうがいいと思って、とぼけたんだ」 「俊……」 「でもね、しばらくしたらまた、しぃちゃんから電話があって……俺はやっぱりここに来て、しぃちゃんと、して……次の日しぃちゃんはやっぱり憶えてなくて」  現実のはずがなかったから。よくできた夢に決まっていた。そうでなければ、望みどおりに慰めてくれるはずなどなかった。 「だから俺、その時から、しぃちゃんのスマホの履歴消してたんだ」  真夜中の迷惑な電話は、一回きりのはずだった。それが操作された事実だったと知る。 「なんで……?」 「なかったことにしたかったから」  俊恵はきっぱりと告げた。 「夢見てる時のしぃちゃんとなら、抱き合えるってわかったから。誰でもいいんだとしても、俺は誰かに渡す気なんてないから。だから、誰にも、しぃちゃんにも教えないって決めた」  熱を帯びた語気に、少し怯む。あの夢が、自分の世界の中だけで起きたことではないなんて。 「でも……朝、元通りだったし……」 「俺がやってた。出したの拭いて、服着せて、布団に入れて、おやすみって言うんだ。そうすると、しぃちゃん、子供みたいにすとんって寝ちゃうんだよ」 「嘘……だろ……」 「嘘じゃないよ。だから、ごめんね」  やはり泣き出しそうな顔のまま笑って、俊恵は法衣の裾を握り締めていた志信の手を、ゆっくりと解いた。 「俊、なんで、こんなことさ」 「好きだからに決まってるだろ」  怒ったような声だった。 「好きだし、大事だし、絶対放したくないのに……欲に負けて、しぃちゃん汚して、ごめん」  解かれた手を再び法衣の裾に伸ばす。志信は、色を覚えた大人としょげ返った子供の同居した、俊恵の顔を見上げた。 「俺、ずっと、夢だと思ってて……」 「――え?」 「夢に見るほど俊のこと好きなんだって……それも、あんな、すごい夢」 「しぃちゃん……」 「これも夢、じゃないよね?」  砂糖でべとついた指を舐めると、痺れるほど甘い。その指を俊恵の唇の隙間に押し入れると、おずおずと、同じように舐める。無言で見つめ合った一瞬の後、かぶりつくような口付けになった。頭を引き寄せ、鼻先を押し付けて、貪る。深い口付けの合間に許された息継ぎはわずかで、まるで溺れているように苦しくなる一方だ。しゃくり上げるように喘ぎながら、志信は切れ切れに俊恵をなじった。 「放したくないとか言って、お見合いしたくせに……」 「知ってたの?」 「ショックだった」 「半分仕事だよ。最初から断るつもりだった」 「それでも」 「……ごめん」  次の口付けは唇ではなく耳朶に落ち、強く背中を掻き抱かれた。 「しぃちゃん、ずっと好きだった……ずっとだよ……」  切ない声が耳から吹きこまれ、脳を直接愛撫されているような感覚。 「周りより大人びてて、芯が強くて、優しくて――きれいで」 「……それ、俺のこと?」 「離れ離れになっても、忘れられなかった。再会したしぃちゃんは、俺の想像よりずっと、やっぱりきれいでさ」  志信はきつい腕の中でなんとか身じろぎ、俊恵の精悍な頬に触れた。 「俺は、あんなに可愛かったお前がすっかり変わってて、びっくりした」 「なにそれ」 「すごく、かっこよくて……参った」  呆気に取られたような無表情の後、はにかんで破顔するから。急に恥ずかしくなったけれど、また唇を塞がれてしまっては言い訳もできなかった。
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