(3)

1/1
前へ
/22ページ
次へ

(3)

 * * * 「弓倉君」  机に伏せてまどろんでいたヒロトは、誰かの声で現実に引き戻される。目を細めて顔をあげると、女子が一人立っている。  みどりだ。  飛ばない、みどり。 「ノート、提出するから集めてるの。弓倉君出してないでしょ?」  あー、と声を出して数学のノートを引っ張り出す。ノートを渡す時、一冊のノートの端をヒロトとみどりがそれぞれ触れる。なぜかヒロトはそこでみどりの名字を思い出した。  岬みどりだ。  みどりは受け取ったノートの表紙をしげしげ眺めている。 「弓倉君って、下の名前、なんて読むんだっけ?」 「ヒロト」 「へえ、タイショウかと思った。大きく翔けるって書いて、ヒロトか。弓倉大翔」  頷いて、真顔のまま、「なんかさ」とみどりは続けた。 「すっごく飛びそうだよね」  どういう意味だ?  ヒロトはまばたきを繰り返してみどりを見上げる。みどりはほんの少しだけ笑うから、ますます意味がわからない。  けれど名前の話が出たついでに、こっちからも聞いておくことにした。 「岬」 「何?」 「下の名前、みどりだよな」 「そうだけど」 「みどりってどんな漢字?」 「平仮名だよ、私」  なんだ、そうか。勝手に「翠」じゃないかと思ってた。  こいつが誰かに「ミドリ」と呼ばれているのを聞いて、カワセミが頭に浮かんだことがあったのだ。翠の意味は、よごれのないみどりの羽。カワセミを漢字で書くと翡翠で、雄を翡、雌を翠とかいったはずだ。  鳥を連想したから、みどりの下の名前を覚えていたのかもしれない。 「なんで?」  みどりが当然の質問をする。カワセミがどうのこうのとは言えないから、「いや、なんでもないけど……」と言葉を濁すしかない。 「ところで弓倉君って、鳥マニアなんだって?」 「え?」  ヒロトは眉をしかめた。愛想がないのでこんな顔をすると「弓倉って怖いよね」と引いてしまう女子もいるが、みどりは気にならないのか平然としている。 「伊藤君が教えてくれたんだ。弓倉君、鳥に詳しいって」  みどりに余計な情報を与えたのは、我が友、伊藤トモノリ君であるようだ。  トモノリの奴、ベラベラしゃべりやがって、と心の中で毒づいていると、「岬さーん、ちょっとー」と誰かに呼ばれたみどりが去っていく。  岬みどり。  割と物静かな女子だったはずだ。二年の時に転校してきた。クラスメイトみんなに「君」とか「さん」とかつけて、呼び捨てにはしない、他人とどことなく距離がある女子。  うるさいのよりはいい。  ヒロトの隣の席には自称「めっちゃ社交的」な女子が座っていて、これがとにかくうるさい。「弓倉ぁー」とか「おい弓倉ヒロトぉー」とぞんざいに呼んでくるヤツで、ヒロトはあまりそいつが好きではなかった。  下校時間になって、一緒に帰るトモノリを、ヒロトは問いつめた。 「お前、何で俺が鳥マニアだとか人に言うわけ?」 「本当じゃん?」  トモノリは悪びれもしない。 「マニアじゃないし」  ヒロトの不機嫌は長くは続かなかった。トモノリに怒ったところで反省もしないから何にもならない。 「あの、岬って、二年に転校してきたよな」とヒロトは岬の話をする。 「そうだったな」 「飛行測定の日、見学してたけど、あれ、何で? 三年になって二度目だけど、前も測ってなかったよな、あいつ」  並んで歩いていたトモノリは、ヒロトに目を向けると、意外そうな顔をした。 「お前、知らないの? 岬って、飛行不能なんだよ」  知らなかったヒロトは、驚いてトモノリを見た。  みどりは、飛行不能だったのか。
/22ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加