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孤蝶、舞う
その蟲に名前はない。
遥かな昔からただ「蟲」と、恐れと畏れの響きでもってそう呼ばれる。
彼女にとって「蟲」は憎悪の対象であり、諸悪の根源であり。
そして、唯一の友であった。
*****
目の前の扉を開くと、真昼と見紛うような光が降ってきた。
あまりのまぶしさに一瞬目がくらむ。されど王女は押し寄せる光の洪水にどうにか耐えて、可能な限りしゃんと背筋を伸ばして立った。
伸びやかな楽器の音色が流麗な旋律となり、王女の戦場を彩っている。
溢れんばかりの金色の光は、どうやら天井に吊り下げられたシャンデリアから注がれる雨のよう。
その雨の下から幾つもの好奇の眼差しが、獲物を見つけたけだもののそれのごとく覗いていた。老若男女、色とりどりの衣裳や宝飾品で着飾った群衆が、王女の一挙手一投足に粘性のある視線を投げかけている。あんなにたくさんの眼に八方から見張られているとなれば、もはや些細な失敗も許されない。王女は後ろに伸びた自身の影が、不安と恐れの化身となって自らの足を絡め取るのを感じた。
「蝶の王国より、第二王子殿下並びに第一王女殿下ご到着です」
ひとびとのさざめきが管弦の調べを掻き消さんばかりに膨れ上がり、サアッと人波が引いてゆく。
途端に眼前へ現れたのは、絢爛な広間の入り口からまっすぐ伸びる赤い道。
この道の先に、金獅子がいる。
王女はいよいよ緊張でもって溺れかけ、自らの手を取る兄王子の横顔を縋るように一瞥した。が、王子はいつもどおり妹に視線をくれることもなく、ただまっすぐに前を見据え、氷にも似た怜悧さを含んだ声色で言う。
「行くぞ。おまえの夫がお待ちかねだ」
おかげで浮き足立っていた王女の胸はすうっと冷えた。少しも取り乱すことのない兄の素振りに平静を取り戻し、はい、お兄様、と囁くように返事をする。
足首に巻かれたリボンの花飾りを儚げに揺らしながら、王女は一歩踏み出した。
エスコート役の兄王子に導かれ、ひと目で蝶の翅を模したと分かるドレスの腰帯を靡かせる。ふわり、ふわり。
極彩色の花園を舞う蝶のごとく、王女は歩いた。玉虫色の不思議な光沢を帯びた黒髪も、ほのかな薔薇の香りを鱗粉のごとく振り撒き、揺れる。
やがて褄紫色の王女の瞳に、ひとりの男の鏡像が映り込んだ。
広間の最奥に設けられた金色の玉座の上。その脇息に頬杖をつき、いかにも尊大な態度で王女を見つめた男の風貌はまさに──金の獅子。
「唯一無二にして比類なき大陸の覇者、皇帝陛下に慎んでご挨拶申し上げます」
あと六歩踏み出せば玉座を戴く階に足が届く、というところで立ち止まり、蝶の国の兄妹は頭上の男へ恭しく一礼した。
先年、病に没した先帝の跡を継ぎ、皇帝の座を恣にした若き金獅子。
あの輝く玉座を手にするために、数多いた兄弟姉妹を殺し尽くし、父の死すらも仕組んだのではと噂される大陸の恐怖の象徴。
金獅子帝国第二十八代皇帝。
王女は今宵、かの者の妻となる。
帝国の爪牙に怯えた小国が恭順の証として獅子に供した、七番目の妃として。
「面を上げよ」
金色の気配をまとう皇帝のひと声に、王女は銀冠で飾られた頭を上げた。
蝶の国唯一の姫として、決して祖国の名を辱めるような真似はするなと念押ししていた父の薄い唇を思い出す。ゆえに努めて凛とあろうと、王女は怯むことなく顎を上げ、玉座の上の皇帝を正視した。彼女の眼差しを受け止めた若き獅子の赤眼が、いかなる感情も宿さぬ眼光と共に細められる。
「遠路遥々、よくぞ参った」
王女が初めて耳にした獅子の吼声は、傲然たる響きを持って広間を満たすひとびとの間に響いた。
「これにて蝶の国との同盟が相成ったこと、嬉しく思う。貴国の誠心、しかと覚えておこう」
それが上辺だけの言葉だと分かっていながら、王女は夜明け色のドレスの裾を抓み上げ、改めて一礼する。
「しかし、噂どおり美しいな」
されど直後に響いた皇帝のひと声が、ドレスを抓む王女の指先をぴくりと震わせ、広間に新たなざわめきを生んだ。
「さすがは長年、様々な国の王侯貴族に求められてきただけはある。大した審美眼を持たぬ俺でさえ、思わず触れてみたくなるな──蝶の国の羽衣というのは」
一瞬の緊迫ののち、ざわめきはひとびとの失笑へ変わった。
あからさまに口角の吊り上がった口もとを扇で隠しているのは、王女よりも早く皇帝に嫁いだ六人の皇妃たちか。
今日まで故国の城の外を知らずに育った齢十八の王女には、あまりにむごい歓迎であった。されど伏せていた睫毛を上げ、再び皇帝を見上げると、彼女は瑞々しく濡れた唇にふうわりと微笑を乗せて言う。
「有り難きお言葉。祖国の織元が聞けば皆、飛び上がって喜びましょう。この羽衣がご入用とあらば、いつでも我が国にお申し付け下さい」
蝶の国にのみ伝わる技法で織られた七色の紗を優雅に揺らし、王女はその淡い色彩を、滑らかな光沢を、惜しむことなく衆目に晒した。途端に六人の女たちが扇の向こうの笑みを消したのが分かったが、王女は構わない。
嘲弄など恐ろしくはなかった。幼い頃から幾度も背中に突き立てられたおそれと忌諱の眼差しに比べれば。ゆえに王女はただ一点、玉座の上のふたつの赤眼だけを見つめて、試金の結果を問いかける。
「面白い」
やがて獅子の口もとに不敵な笑みが刻まれたのを、王女は見た。
「今日より其方には紫蘭宮を与える。両国の同盟成立を祝して一曲踊ろうと思うが、どうだ?」
「喜んでお受け致します」
立ち上がった皇帝の背後で、真紅の外套が翻った。王女は兄王子の目配せを受け取って一歩進み出、階から降り立った皇帝の右手に細い左手を重ねる。
間近で見上げた皇帝の金髪は、まるで太陽の光で染めた鬣のようだった。その輝きを浴びて萌芽したわずかな羨望の芽を手折り、王女はそっと瞼を伏せる。
何故なら自分は、この獅子を亡き者にすべく送り込まれた〝蟲〟なのだから。
皇帝と王女が舞台に上がるのを待って、大陸最高峰と謳われる宮廷楽団が楽器を構えた。白い指揮棒が弧を描き、春風のごとき旋律を呼ぶ。
ふわり、ふわり。降り注ぐ光の雨の下、王女は舞った。
破滅の始まりを告げる円舞曲を。
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