56人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ
血濡れた獅子
螺鈿を溶かし込んだような光沢を持つ黒髪は〝蟲〟に選ばれた証であるという。
その王女の黒髪に侍女がゆっくりと櫛を引き、梳かし込む。すると王女の髪はますます絹のごとき艶を発して、仄赤い灯明かりの中でなお七色の幻想を紡ぎ出す。
純白の寝衣に身を包んだ王女はひとり、閨の鏡台の前に座り込み、鏡の中で薄ぼんやりと闇に浮かぶ自身の白面を見つめていた。
今夜、皇帝の渡りがある。
迎賓宴とは名ばかりの、新たな妃を値踏みする品評会を終えた晩のことだった。
側室に当たる皇妃の輿入れは実に質素で、盛大な婚礼の儀などあるはずもない。
ただ公の場での顔見せを済ませ、主上に後宮入りを認められさえすれば、いかなる女も皇室に嫁いだことになるのである。
もっともこの世でただひとり、皇帝の正式な伴侶を名乗ることを許される皇后ともなれば、国を挙げての祝宴でもって遇されるのだろうが。
残念ながら王女は取るに足らない南の小国から、大陸全土を呑み込まんとする強大な獅子へ捧げられた供物に過ぎず、皇帝の伴侶となるには卑小すぎた。
いかな一国の王族と言えども、もはや大陸の支配者と称して差し支えない帝国の皇帝からしてみれば、辺境領土を治める一貴族と大して変わりない。
ならば何を夢見ることがあろう。
王女の役割はただ人質として祖国の露命をつなぐこと。その使命を果たすことさえできればいい。それが今日まで生かされてきた理由なのだから。
「皇帝陛下のご来臨です」
紫蘭宮と呼ばれる小さな離宮の一室で、王女は耳慣れない声を聞いた。
見ればいつの間にやってきたのか、つい先刻顔合わせを済ませたばかりの中年女が、扉の前で恭しく一礼している。彼女はこの国の爵位ある貴族の妻だった。
王女が祖国から連れてこられたのは今、櫛を手に髪の手入れをしてくれている侍女ただひとりで、あとはすべて帝国から与えられた人材が紫蘭宮を囲んでいる。
そこに王女の味方はいない。唯一妹の輿入れを見守りに来た兄王子も、帝国との同盟締結に係る諸務さえ滞りなく片づけば、即刻帰国の途へ就くのだろうし。
そう考えると、ほんの数刻前まで王女を籠絡せんとしていた怯えや不安は嘘のように溶け消えて、至極透明な心持ちだけがあとに残った。ゆえに王女はすっと鏡台の前から腰を上げ、自分の他に六人の妻を持つ夫を出迎える。
「お待ち申し上げておりました、陛下」
ほどなく扉の向こうから現れた若き獅子に、王女は帝国の淑女の礼でもって会釈した。先刻宴会場で見たときには雄々しさと壮麗さを兼ね備えた礼服に身を包んでいた皇帝も、今は寛いだ寝衣を一枚身に帯びているだけだ。
その姿が存外新鮮で、顔を上げると同時に王女の視線はすうっと、衿から覗く皇帝の鎖骨と胸筋へ吸い寄せられた。さすがは成人して間もない頃から転々と、大陸中の戦場を巡って華々しい戦果を挙げてきた武人と謳われるだけはある。歳は祖国の長兄と同じと聞いてきたのに、精悍な顔つきも、しなやかさと強靱さを併せ持つ肉置きも、病弱な兄とは似ても似つかぬことに王女は珍妙な印象を受けた。
「本日は我が国の使節団を迎えるために、あのような盛大な宴を催して下さり大変ありがとうございました。本来であれば国王自らご挨拶に伺うべきところを、過分なまでの待遇で迎えていただきましたこと……」
「前口上はいい。決まり切った社交辞令など聞き飽きた。侍従に酒を持たせてきたが、飲むか」
「……では、ご相伴に与らせていただきます」
なんて性急な人かしら、と内心小首を傾げつつ、王女は皇帝の誘いを容れて天蓋つきの寝台に侍った。自尊心の高い子女であれば、定例の挨拶すらまともに取り合おうとしない無礼さに憤慨したかもしれないが、何と言っても相手はかの金獅子帝国第二十八代皇帝なのである。逆らう者は容赦なく殺し、肉親さえも駒として切り捨て、戦場では哄然と残虐の限りを尽くすことで知られる男。
ときには敵将を生きたまま火炙りにし、ときには串刺しにした敵兵の亡骸で原野を埋め尽くし、その武力と恐怖でもって数々の国を支配下に置いてきた彼はもはや、いかなる傍若無人な振る舞いも許された存在なのだった。きっと今の皇宮には、面と向かって皇帝を諫める家臣すらいないに違いない。ほんの少しでも機嫌を損ねれば、明日には首と胴とが別々に城壁へ掲げられているかもしれないのだから。
──ゆえにゆめゆめ陛下の機嫌を損ねるな。
──可能な限り懐へ入り込み、獅子身中の蟲となるのだ。
──さすればあとは、ひそやかに皇帝の死を待つだけ。
故国を発つ以前、遅効性の毒のごとく鼓膜に擦り込まれた父の幻聴を聞きながら、王女は侍女が運んできた寝台卓を受け取った。
次いで「下がりなさい」と静かに促せば、憐れにもたったひとり、王女の付き人として祖国を離れるさだめとなった娘は目を伏せ踵を返す。
「若いのにずいぶんと陰気な侍女だな。馘首にしたらどうだ?」
ところが閨でふたりきりになるや否や、卓の上の銀杯を受け取った皇帝はまったくぞんざいな言葉を放った。が、王女は取り合わず、美しい金彩に飾られた硝子瓶から夫の杯へ血のような葡萄酒を注ぎ込む。
「どうかご容赦下さい。彼女は国許を離れることが本意ではなかったのです。我が国のさる貴族の娘なのですが、私の侍女として選ばれたばかりに、心待ちにしていた婚儀が先送りとなってしまい……」
「ふん、退屈な話だ。そう言うおまえは宴に姿を現したときから妙に落ち着き払っているが、故国にいた頃からそうなのか? 蝶の国の王が今日まで一度も公の場に出すことのなかった深窓の姫と聞いていたから、どれほど甘やかされた高飛車女が来るかと楽しみにしていたのだがな」
「そういった女人がお好みなのでしたら、そのように振る舞うこともできますが」
「よせ。俺は器量もないのに気位だけは高い女のが苦手だ。見ていると無性に殺したくなる」
「では、器量のある愚姫を演じればよろしいですか?」
「……よほど己の才覚に自信があるらしいな」
「滅相もございません。ただ……父からゆめゆめ陛下のお気に召すよう心がけよと命ぜられて参りましたので」
王女が役目を終えた硝子瓶を卓に戻して答えれば、皇帝の眼がぎろりと灯明かりを弾き、闇に赤い軌跡を描いた。束の間、そのあまりに獰猛な光に王女が見惚れていると、酒に濡れた口角を持ち上げて獅子が言う。
「正直者だな。おまえは俺が恐ろしくはないのか?」
「実際に帝国へ足を運ぶまでは、恐ろしいお方やもしれないと覚悟はしておりました。ですが私はつい先刻、陛下のお顔もようやく拝見したばかりですので……果たしてどのようなお方なのか、今はまだ判断がつきかねます」
「ククッ……ほとほと風変わりな女だ。俺は同じ質問を先の妃六人にもしてみたが、いずれも必死にご機嫌取りの言葉を並べるか、青ざめた顔で取り繕うかのどちらかだったぞ」
「それは他の妃様方が皆、帝国の由緒ある家門のご出身だからではございませんか? 己の失言ひとつで一族が立場を失うともなれば、少しでも陛下のお心に添おうと努めるのは至極当然かと存じます」
「ほう。ならばおまえは、己の失言が原因で祖国が滅びても構わんというのか? 愚直なだけでは俺の機嫌は取れんぞ」
「私は……可能な限り、父の言いつけを守ろうとは思いますが……しかし生憎、国許には結婚を誓った殿方などもおりませんので」
と、王女は自身のために用意されたもう一方の銀杯を手に取りじっと見つめた。
杯の中で微か揺れる赤い水面は、やはり血を想起させる。
瑞々しい葡萄の実ではなく、まるで人の臓物を漬け込んだかのような……。
ところがほんの束の間、王女の思考を染め上げた陰惨な空想を足蹴にするかのごとく、にわかに皇帝が笑い出した。突如響いた笑声に驚き瞳を丸くすれば、皇帝は銀杯よりも剣を握る方が似合う骨張った手で、口もとを覆いながら言う。
「まったく可笑しな女だ。これほど声を上げて笑ったのは久しぶりだぞ」
「……陛下のお気に召す回答だったのでしたら光栄です」
「ああ、実に愉快だ。おまえは己の祖国が恋しくはないのか。まるで滅びたところでさして困らんとでも言いたげな口振りだが」
「祖国……と申し上げましても、陛下もご存知のとおり、私は私が育った城の、限られたごく一部の区画しか存じ上げませんので。私にとっての祖国とは、あの閉ざされたいくつかの部屋の連なりでしかないのです。ですから……国が滅びるというのがどういうことなのか、身に迫って実感することができず……」
それが王族として恥ずべきことだと知りながら、王女はありのままの真実を口にすることしかできなかった。
すると皇帝は改めて、値踏みするような眼差しを注ぎつつ杯を傾ける。
「そうか。だが王は、娘のおまえを城から一歩も出したがらぬほどに溺愛していたということだろう? その父が死ぬと思えばさすがに恐ろしいのではないか?」
「……そう、ですね……父や兄を永遠に失うのは……恐ろしい、ことなのかもしれません。ですが、私は……」
王女は血の水面に映る己を見つめ、口を噤んだ。
言えるはずもない。この身は贄として捧げられるために生み落とされたものであり、父にも兄にも慈しまれた記憶がないなどと。
ゆえに王女には帰るべき場所も居場所もない。これまでも、これからも。
されど、王女は──
「……なるほど。つまりおまえは祖国を愛してはいないのだな」
刹那、皇帝の喉から紡がれた低い声が闇に響いた。
「いいや、祖国どころか肉親すらも愛せなかったか。果たして何がおまえをそうさせたのか、気になるところではあるが──」
次いで杯を置く音がしたかと思えば、王女の上から卓が除けられる。
あっ、と驚き、声を発する暇もなかった。
気づけば皇帝の右手に杯はなく、代わりに王女の白い顎を掴んでいる。
炯々たる赤い眼がすぐそこに迫り、唇が重なった。飛び跳ねた心臓に惑う王女の反応など歯牙にもかけず、獅子は貪り、力強い腕で白絹の海に王女を沈める。
「安心しろ。ならば愛されるとはどういうことか、この俺がとくと教えてやる」
「陛下──」
長い接吻に喘ぐ王女の唇を、皇帝が再び塞いだ。
絡み合う舌からは葡萄酒の──赤い血の味がする。
衣擦れの音の狭間で、燭台の明かりが消された。
王女の細い腰は獅子に抱かれ、もはや逃げ出すことも能わない。
*****
蝶の王国に生まれた姫は、古の時代から〝蟲〟と共に育てられる。
この蟲は毒性のある粘液を発し、生まれたばかりの赤子の臍からするりと体内へ入り込むと、しばしそこを巣として暮らす。
が、大抵の赤子は蟲の発する毒に当てられ、早々に命を落とすのが常だ。
蟲の毒に耐え、生き延びることができるのは五人に一人か、十人に一人か。
しかし文字どおり生まれて初めての試練を生き延びた赤子は、蟲に選ばれた姫として大切に大切に育てられる。
そうして姫は〝蟲〟となるのだ。
美しく妖しげな魅惑を振り撒き、されどあらゆる粘膜から分泌される体液に、人をゆっくりと死に至らしめる毒を持った〝蟲の王女〟に。
最初のコメントを投稿しよう!