55人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ
藤咲く園にて
藤の花が幾房も垂れる道の下で、王女は繰り返し自問した。
──なぜ。
なぜ、自分はあの白亜の亭で、皇太后に皇帝の不調を知らせてしまったのだろう。今日まで慎重に慎重を重ねて、かの荒獅子の機嫌を損ねずにきたというのに。
たった一度の失言で、すべてが無に帰す可能性には常に備えていたはずなのに。
これでもし本当に皇帝の渡りが絶えれば、王女は自らに課せられた使命を果たせずに終わることになる。
──なぜ、なぜ、なぜ。
足もとを飾る藤の花弁を一歩踏むたび、苦い自問と後悔が交互に王女を苛んだ。
春を迎え、彩りも鳥の囀りもいっそう賑やかとなった皇宮の庭が、今はひどく色褪せて見える。
──やはり私には、初めから無理だったのでは。
陽光が道に描き出す光の斑を見つめながら、そんな諦念を覚えた。
荷が重かったのだ。あの薄暗い王城の一角以外、祖国を知らずに育った女が、なけなしの浅智恵を弄して護国の盾となるなんて。
それでも、今日まで生かされたからには。
この身に巣くう禍つ蟲が己を選んだのには、何か意味があるはずだと思いたかった。自らが世に生を受けた理由を知りたかった。確かめたかった。
されどその唯一の望みさえも絶たれたならば。
藤棚が落とす影の下、王女は蟲のゆりかごへ手を伸ばし、問いかける。
──ねえ。おまえはどうして私を選んだの?
どうして死なせてくれなかったの?
そっと腹部に繊手を這わせ、今日まで片時も離れることなく生きてきた蟲に尋ねた。命を蝕む毒に耐え、この蟲を身に宿したことにさえ何の意味もなかったならば、これほど呪わしい話があるだろうか。
父母に触れられた記憶が一度もないのも、兄とすれ違うたび穢らわしいものを見る眼差しを注がれたのも、代々の王女の短命を不死蝶の呪いと誤解した家臣たちから忌避されてきたのも、すべては蟲に選ばれたがゆえだというのに。
されど蟲は答えない。
王女にはそれが、唯一信じていた友からの、手酷い裏切りのように感じられた。
「あら、これはこれは第七妃殿下。お顔の色が優れないようですけれど、いかがなされました?」
ところが刹那、不意に行く手から甲高い女の声が上がって、王女ははたと足を止めた。溺れかけていた失意の海から浮上して、朧な視線を投げかければ、見覚えのある吊り目が敵意という名の弓形を描いて王女の姿を捉えている。
持ち主の気性そのもので染め上げたような真紅のドレスに身を包み、胡桃色の髪をうず高く巻き上げた、派手な装いの女がそこにいた。
当然ながら、王女も彼女の正体を知っている。
王女より二年ほど早く後宮入りしたという、名門貴族出身の第二妃である。
「どこかお加減でも悪いのかしら。もしそうなら宮医をお呼びになった方がよろしいのではなくて? 今にも倒れてしまいそうな顔色ですわよ」
そして同じく名門出身の侍女たちをずらずらと引き連れて現れた第二妃は、広げた扇の陰から王女の反応を盗み見るような仕草で言った。
この時間、こんなところで出会すということは、彼女もまた皇太后の茶会に招かれ亭へ向かうところに違いない。そして第二妃もまた、王女が皇太后との会談を終えて自宮へ帰るところだと察している。
ゆえに会談の成果は如何程であったかと、あわよくば探りを入れる魂胆で声をかけてきたのであろう。王女は何の色もない心持ちで彼女を見返し、すぐに淑女の礼を取った。生憎今は己の機嫌を取るのに精一杯で、他人の機嫌まで取ってはいられない。よって不躾な穿鑿をやり過ごし、早々に話を切り上げるべく頭を垂れた。
「お気遣い痛み入ります、第二妃殿下。お察しのとおり実は少々気分が優れず……これから宮へ引き取り、少し休息を取ろうかと思案していたところです。ですが宮医を呼ぶほどのことではございませんので、ご安心を」
「あら、そうですの? ですがご無理は禁物ですわよ。どうやらお腹の具合を気にされていたようですし、万一稚児を宿していたら大変ではございませんの。お世継ぎに大事があれば、陛下がお嘆きになりますわ」
まるで舞台役者のごとく大袈裟な抑揚を声音に乗せて、第二妃は扇の向こうから王女の顔色を透かし見た。その瞳がやはり弓形を描きながら、しかしわずかも笑っていないのを見て取って、ああ、と王女は合点する。
どうやら第二妃は王女が腹の蟲を撫で摩っていたさまを、懐妊の兆しをひけらかし、皇帝の寵愛は我が身にあると主張するためのものと受け取ったようだった。
恐らく虫の居所が悪いのだろう。
第二妃は七人の皇妃の中でも、特に癇が強いことで知られている。
加えて、皇太后の茶会に招かれたのが第七妃たる王女のあとだと知ってしまったのである。ふた月に一度の茶会において、皇太后が皇妃を招く順序はすなわち皇妃の序列に直結している。つまり皇太后は名門出身の第二妃よりも、入宮からわずか半年足らずの王女の方が格上たるべきと、今日の茶会で表明したのだった。
ゆえに第二妃はこの辺境出身のみすぼらしい王女が気に食わない。ただでさえ入宮から数ヶ月、皇帝の寵愛を独占しているくせに、厚かましくも皇太后にまで取り入るなどと。微笑に見せかけた瞳の奥で、第二妃は確かにそう言っている。
だが王女は第二妃が思う以上に身の程を弁えていた。何せ子を孕めぬ肉体である以上、どんなに気に入られたところで皇帝の伴侶は務まらないし、そもそもそんな一時の寵愛さえも今、失うかもしれない瀬戸際に立たされているのだから。
「……ご忠言、有り難く拝聴しました。ですが月のものも絶えてはおりませんし、私ごときにはお気の早いお話です。今時分は花冷えで体を壊しやすいと申しますから、第二妃殿下もどうかご自愛くださいませ」
凪のごとき声色でそう告げて、王女は再び淑女の礼を取った。それを別れの挨拶に代え、同郷の侍女ひとりを引き連れて、粛々と藤の道をあとにする。
されど立ち去る王女の背には、第二妃の憎悪の眼差しがなおも鋭く突き立った。
ぎりりと噛まれた真っ赤な爪が、不穏な音色を奏でている。
最初のコメントを投稿しよう!