始まりの高級豆

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始まりの高級豆

 夏本番を翌月に控え、10日連続の猛暑日が続いていた。 家の中にいても蝉の声が迫り来る7月日曜の正午前。 用を足し、何の考えもなくトイレのドアを開けると、ドンッという鈍い音と共に、父の巨体が転がる。 「ううっ…」 「お父さん!?」 父は、狭い廊下一杯にうずくまり、 恨めしげな顔で見上げたかと思えば、安堵に頬を緩めた。 「なんだ風子(ふうこ)か。早起きだなっ」 「早くない。もう11時だよ」 見れば、剛毛な父の手には、肉まん程度の小さな茶紙袋がしっかりと握られている。 その挙動不審さからすれば、中身はおそらく、振ると音がするだろうに違いなかった。 「ぶつけといて何だけど、 また高い珈琲豆でも届いたの? お母さんに怒られるよ」 しかし変だ。 宅配だとすれば、家のインターホンは鳴っていない。 「そう言うなって。 母さんと圭太(けいた)は?」 頭を掻きつつ父は起き上がり、さして広くもない室内を、見渡した。 築年数は、私と同じ20年。 いたって普通の二階建て一軒家は、 とある事情で3年前、風呂場だけはリノベーションしたものの、その他は手付かずのまま。 近頃では父の重さに耐えかね、床が派手にきしむことも‥。 「お母さんは、回覧板まわしに行った。 話好きの佐伯(さえき)のおばちゃん家だから、暫く帰って来ないと思う。 圭太は部活が休みらしい。まだ寝てる。 ところで、お父さんが、散歩から全然帰って来ないって、お母さん心配してたけど?」 「そうなの? まぁ、散歩といえば散歩だよ。豆を買うのが目的だけど、ついでにちょっと銀ブラしてきた」 「銀ブラって‥銀座!?」 車は今、確か車検に出している。 電車で銀座だとすれば、往復はゆうに3時間。 そんなところまで遠征するとは、 普段、ネットで豆を買う父にすれば、珍しかった。 「うん。だってさぁ、この店の豆、通信販売してないんだ。そうだ、銀座に行ってたって事は、 くれぐれも母さんに内緒だぞ」 「言わないけど、新しい豆を買った事は、 お母さんにバレると思うよ」 「じゃあ母さんにふるまわなきゃ良い」 「そんな事出来る?お父さんって、買った豆はすぐ、 家族全員に飲ませたがるじゃない。 それにしても、どうして銀座くんだりまで‥」 母だって珈琲好きだし、 ギャンブルも浮気もしないからと、 高めの豆を買うことに反対している訳ではない。 ただ父の場合、小遣いの大半をそれに費やした挙句、 呑み代が無いと母に泣きつくものだから、 おかんむりを食うのだ。 豆、そう、あの茶色くて苦み走ったあいつ。 たかが珈琲豆と侮るなかれ。 100g1万円を超える高級牛肉並みのものが、ザラにある。 「いやさぁ、最近、銀座にカミテンが出来たって、SNSの珈琲フリークさん達の間で噂になってたんだ」 「カミテン?」 「ほらよく、この人神っ!とかって、風子達の年代は使うだろう?その神。つまり神!な店」 「あぁそっちの。私は使ったことないけど‥そうなんだね」 「ハハッ、風子はちょっと古風だからな‥。 まぁ細かい事は良いじゃないか。 さっそく淹れてやろう。店で粉にしてもらってきた」 冷めた視線が突き刺さるのか、父は苦笑いを浮かべつつ、キッチンへと逃げ込んだ。 食器棚から珈琲サーバーを取り出し、赤いポットで湯を沸かす。  口笛を吹きながらペーパーフィルターを箱折りする 父の指先は、浮かれたように踊っていた。 「それにしてもさ、あの店の珈琲は、 天国に行けそうなくらい、旨かったなぁ」 「買っただけじゃなくて飲んできたの?」 「そりゃあそうさ。 銀座なんてのは滅多に行かないからね。 風子、ほら見ろ!この泡、芸術品だぞ」 父が湯を注ぎ込めば、 粉の豆は、スフレのようにぷっくら膨らむ。 喉元過ぎれば、アッハッハな父の性格は、 弟、圭太に受け継がれ、私には微塵も受け継がれていない。 母もそう。暗く沈んだ所を見たことが無かった。 だから家族の中では、何事にも冷めた私だけが、突然変異というべきだろう。 しかし数年前、宝くじ並みの確率で起きる、いや普通は起きないだろうを経験した直後は、さすがの私も動揺せざるを得なかった。 あのこととは、当時、風呂に入っていた私を、 雷が直撃するという痛ましい大惨事だ。 あの時、もし電流が稀な確率で体を一周しなければ、私は確実に死んでいた。 発見され、病院に運ばれた私は、 1週間の昏睡状態を経て目覚める。 だがこの時の私は、タイムスリップにより、 あちらでは、数ヶ月の時を経ていた。 つまり、打たれたと同時に、過去、 それも第二次世界大戦中の日本という悲惨極まりない場所に飛ばされ、すったもんだの挙句、 あちらで知り合い、匿ってくれた人達により、 奇跡的に現世へと舞い戻ったのである。 勿論、最初は夢なのかと思っていたし、そう信じたくもあった。 だがあの時、父のよこした珈琲豆が発端となり、 私は自分がタイムスリップしていたのだという、 確固たる確証を掴む再会を果たした。 でもだからといって、その後人生が180度変わった訳ではない。 再会を果たした事で、消せない疑念は残ったものの、 あれから3年という月日が経ち、それも日常に埋もれつつある。 貴重な経験を何一つ活かせない私、 春田(はるた) 風子は、だから普通の私で生きている。 大学には入学したものの、 キャンパスライフを謳歌、なんて言葉からは程遠く、 家族以外とは、ほぼ接点を持たない私で。
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