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Ginza for the first time
数時間後、灼熱の銀座四丁目に降り立った私は、
その街の重鎮、和光ビルの時計台を、
見上げていた。
父の事をバカには出来ない。
豆を追い求めてではないが、
その名を聞いた途端、
バネをねじ込まれたように、私の体は反応してしまった。
ようやく後悔したのは、
父にろくに説明もせず、着の身着のまま家を飛び出し、電車に乗り込んだ後だ。
所持品は僅かなお金と携帯だけ。
やっちまったなぁ‥って所である。
そんな全ての発端である、エデン。
話はまた、タイムスリップ時に遡る。
私が気を失い、倒れていた場所は、
都内の一等地に、広大な敷地を持つ、
華族、四門家の庭先だった。
その家の1人息子、海里が、偶然にも私を発見。
その彼が、私を未来からやって来たと信じ、
屋敷に匿い、未来に戻してくれなければ、
今頃、どうなっていた事か。
彼は言わば、命の恩人だった。
そしてその時、
眉目秀麗にて聡明、
快活な青年、四門 海里に、私は恋心を抱いたのは、
当然と言えば当然と言えよう。
やがて、両想いという嬉しい誤算が起きたが、
不運にも私はタイムトラベラー。
彼には、父親の決めた婚約者、久松家の御令嬢、菫がいた。
そして悲劇の初恋は、その結末すら見届けれぬまま、
私がこちらに舞い戻ったことで幕を閉じた。
無事に戻れたというのに、暫くはおかしなもので、
こちらの生活に馴染めなかった。
現代では人付き合いの苦手な私が、
四門家の人々とは、なぜだか妙に馬があったせいかもしれない。
何より、初恋相手の海里を思い出せば涙が溢れ、
その辛さから抜け出す為に、夢だと思い込み、飲み込み、現実から逃げようとした。
そんな日々に終止符を打ったのは、
父が差し出した古びた豆だ。
パナマ ゲイシャ。
ジャスミンの匂いが強い、豆の中では高額なもの。
私が雷に打たれた時、
近く購入した記憶の無いこれが、浴槽の床一面にばら撒かれていたと、しかも油がまわり、古びていたと、不思議そうに父は言った。
そしてその豆こそ、誰あろう、海里が最後に私に手渡したもので、彼と過ごした日々を明白にするものだった。
四門家。
目を背けてきた、その家の歴史と、
私は向き合う覚悟を決めた。
タイムスリップの時を過ごした四門邸。
それが今も国の重要文化財として現存することを知ると、5月の風香る中、足をそこへと向けた。
緑濃く、茶葉に似通う木々が揺れ、
導かれるまま辿り着いた広大な邸宅。
微塵も変わらぬその姿に息を飲むも、
門前には受付らしきスペースが作られ、
物珍しげに見学する客の姿があった。
そんな時、どこからともなくした声が、
73年の時を経て、再び私に闘いを挑んだ。
一台の電動式車椅子。
そこに鎮座し、こちらを睨みつけている老婆は、
自らを四門 菫だと名乗り、天に向かい背筋を伸ばした。
赤いマニュキュアの施された指。
豪奢な葡萄色のドレスが風にふわりと揺れる。
そんな煌びやかなものに反して、
齢、90をも超えるであろう、
彼女の頬には、深い皺が刻まれていた。
『わたくし、ここ暫く、
来る日もくる日も、あなたをここで、待っていましたの。もうそろそろ現れるに違いないとね』
『私を‥ですか?』
『ええ。逃げようたってそうはいきません。
あなたが煙のように消えた後、
何者であったかを、海里からこの耳でハッキリと聞いたのですから。
ふんっ、腹立たしいその頬。無意味にピチピチしているではありませんか』
声質こそ変われど、その張り詰めた声は、
あの時と同じ、私に真っ直ぐに突き刺さった。
当時、私は婚約者が故意にしている謎の娘として、
彼女に敵視されていた。
だが、彼女は最初に四門と名乗った。
そこから察するに、
圧倒的勝利者は彼女なのだ。
『だから待っていたと…何でです?』
『何故?
いつの時代であっても、昼行灯のような人である事に変わりはないのね。
勝利宣言をする為に決まっているでしょうに。
あなたの存在など、元から足元にも及ばなかったのです』
名乗るだけでは不十分なのか、
古びたロケットペンダントを差し出し、
鼻息荒く、彼女は私に見せつけた。
セピア色の楕円の中、
どこか不貞腐れたタキシード姿の海里が、
ウェディングドレスの菫と並んでいる。
そんな事実を突きつけられても、
私にとってはまだ3年。
初恋の傷は癒えていなかった。
ー 父上の思い通りになど決してなるものか。ー
海里のそんな声はだが、小さな写真に吸い込まれた。
私がこちらに戻る前、
海里は学徒出陣を控え、大学を休学していた。
戦地に赴いたとて、必ず戦死するとは限らない。
あの笑みは天命を全うしたのだろうか。
もしそうなら、それだけが救いだ。
そんな僅かな期待を胸に、私は問うが、
菫はけんもほろろに言い放った。
『海里は神風特攻隊として、お国の為に死にました。
突撃したのだから、遺体もへったくれもありません。まぁ何より、あれ程飛行機飛行機とうるさかったのですから、飛行機で死ねて本望でしょう』と。
それは間違っていると、正したかった。
飛行機を分身のように愛していた彼が、
そんなことをするはずはないでしょうと。
それと同時に浮かんだのは、
なぜ、あれほど真っ直ぐ私を愛してくれたはずの彼が、私を帰した後とはいえ、菫と結婚する道を選んだのだろうかと云う事だ。
時代、父親の圧力、死を覚悟した自分への焦燥感。
そんなものが頭を過るが、
その後も滔々と四門家の憐れな末路を語り、
咽び泣く菫に、ただただ圧倒されていた。
そんな中、のほほんとやって来た青年こそが、
菫の玄孫、四門 エデンだった。
彼は最初、私が見間違うほど、姿形、その声すらも、海里に酷似していた。
私達のやり取りを不思議そうに眺め、
風の匂いを嗅ぐように鼻先で笑う。
ハナから信じていないのか、
興味の無い事には我関せずと言ったところだった。
やがてエデンが車椅子を押し、私に背を向け、
何の後腐れもなく、菫と共に違う道を進む。
その背を見送りながら、心の中で叫んだ。
バイバイ、数奇な巡り合わせ。
さようなら、私の初恋。
二度とあの頃の海里と会うことは出来ない。
だからこそ鎮火させた想い。
それが今日、父が伝書鳩のように、あの店の豆を運んできたせいで再燃した。
そして73年、プラス3年も経った今、
菫があの時語らなかった、2人の結婚の経緯について、真実を知りたいと願うのは、自分でもかなりしつこい。
だが、しつこいと言うなら、
私を待ち続けていた菫さんも良い勝負だ。
そしてもう一度タイムスリップ出来ないならば、
それを知る生き証人は彼女だけ。
あの時既に年老いていた彼女。
生存の確証はないが、
連絡先も知らない彼女に行き着くには、
まず、四門 エデンに辿り着かねばならない。
それにしてもと、陽に反射するスマートフォンの画面を疎ましく探る。
絵伝珈琲と何度検索しても、
店の所在地と珈琲の写真、レビューしか出てこない。
代表者名には、エデンとだけあり、余計なミステリアス感しかなく、通常ネットで晒されるはずの、顔写真すら出てこなかった。
人違いかもしれない。
そう思いつつも引き返そうとは思わなかった。
なぜならあの時の2人の会話を、
今でも鮮明に覚えていたからだ。
『私の最高傑作は、とびきり美しいあなたよ、エデン。だから、趣味だか何だか知らないけれど、
儲からない珈琲屋なんて今すぐ辞めて、
大学にお戻りなさいな』
珈琲屋。
美しい玄孫を眩しげに見上げ、菫さんは確かにそう言っていた。
それでも彼が絵伝珈琲のオーナーだという
保証はない。
けれどどこまでも平行線だった私と四門家に、
一抹の繋がりがあるやもしれぬと思えば、
奇妙な高揚感で満たされた。
現代では感じることの出来ない、
生きているという高揚感が。
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