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花のことば1
夜十時、「フラワーサワキ」の店員の桜井薫は、取引先のビジネスホテルに来ていた。四月に入ったばかりなのに蒸して、今夜は半袖のシャツでも暑い。
業者用の納入口付近にバンを止め、警備員に声をかけて中に入る。パスも一応見せたが高校一年のバイト時代から店長の沢木光春に付いて七年もこのホテルに毎週通っているので、実はすっかり顔パスだ。
七階建てのビジネスホテル。総支配人の鳳修が店長と友人で、わざわざ花を注文してくれる。今週は一昨日生けたばかりなのに、支配人の石田から花が枯れていると連絡があり、かけつけたのだ。
添付された写真は不鮮明で理由も花の種類もわからなかった。だが忙しい石田にもう一度撮影してもらうのも申し訳なく、目につく花を持って来た。
直接見てからとは思ったが、ガーベラとグラジオラス、アスターを抱えて車を降りる。ビニール袋を入れたバケツを腕に通すと、小柄な薫は荷物に埋もれた。全部持ったところで突然電池が切れてしまい、仕方なく小さなキーホルダーの付いた鍵を回して閉めた。
「足りないようなら朝イチで持ってこよう」
そう独りごちて支配人兼フロント兼、この時間はエントランスを清掃している石田の元に向かった。
「ごめんね桜井くん。こんな時間に来てもらっちゃって」
旧式の大きな業務用の掃除機のコードを片付けながら石田が謝って来る。三十半ばで独身だが、地味なスーツと七三の髪型のせいで年より老けて見える。
「とんでもない、ご迷惑おかけして」
「いやー、悪いのうちの方なんだ」
「え?」
石田によると、急な気温の上昇で今年初めて冷房を入れたのだが、客からは暑いとクレームが入り温度を下げた。それでも暑いと言われ客室へ向かうと、廊下がキンキンに冷えている。そこで空調の切り替えが故障していることが分かったのだと言う。
「さっき見たら結構萎れちゃってて。来週まで花がないのも寂しいし」
ホールもフロントの花も枯れていない。客室廊下の両端の花の入れ替えとなりそうだ。
「見てみないと分かりませんが、水切りをし直すだけで大丈夫な物もあるかも。持ち合わせで足りないようなら朝また来ます」
「ありがと、助かるよ」
「僕で良ければいつでも」
花を抱えなおす薫に石田がいやいやと言う。
「沢木先生の豪快なアレンジも良いけど、俺は桜井くんの女性のような繊細な生け方が好きだな。あっ、今こういうのいけないんだっけ?でも花好きに男女の区別はないよね」
「ありがとうございます。……昔そう言ってくれた人を思い出します」
はにかんで俯く薫に、ゴシップ好きの石田が興味津々とすかさず突っ込む。
「それって桜井くんの初恋の人?」
「そんなんじゃ……」
本当は思い出したのではない、いつもその人の言葉は胸にあるのだから…………。
(あの人がいたから、僕は今こうして大好きな花に囲まれて仕事が出来る)
その時、客室に繋がるエレベーターから人が降りて来た。遠目にも体が大きい若い男性は、一緒に来た黒い服の男と言い争っているようだった。
「あっ!」
先に出た若い人物の顔を見て、薫は小さく声をあげる……。
今まさに話に出た「その人」がいたから。
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