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一
ゆるゆると大河の流れる広大な地に秋津国からの使者達が一歩を記したのは春も浅い頃だった。
大陸を統べる帝国『讌』の都は大河の畔、険しい山塊を背に、東西に開けた街道を二十里ほど河口から遡った先に高い城壁に囲まれて絢爛たる繁栄を誇っていた。
「見よ、春だというに、まだ風花が舞っておるぞ」
もの珍しそうに袍の袖から色白の腕を伸べる秋津国の第三皇子、嘉笙は齢十六才。才気煥発ではあるが、いささか線が細く、姿かたちもどことなく頼りない。なにより特徴的なのは、漆黒の髪でありながら、菫色の眸をしていた。嘉笙の母は渡来人の娘で、それが故に身分も低く、嘉笙も皇位の継承者からは外されていた。
海を渡る危険な朝貢使の役目に抜擢されたのはその事もあり、同時に、嘉笙にとっては、大陸は母の国だった。
「若君、お手が濡れます。大陸は広うございますゆえ、この華陽の都は、我が君のおわします娜唯の郷より遥か北に位置しております。さ、お手をしまわれて...上衣をきちんと羽織られませ」
おろおろと鶸色の上衣を着せ掛ける博士の高信晴に苦笑いし、馬上から若い武官が輿の中に声を掛ける。年の頃は二十七。すらりと伸びた長身で鍛え上げた逞しい体躯は、秋津国には並ぶ者がいないほどだ。
「大事ない。若君とてもう十六、立派な大人じゃ。若、馬になさいませ。輿では却ってお疲れになりましょう」
「うん。佐易、輿を降ろせ。馬に乗る」
やや険し気な整った面差しを僅かに綻ばせてその様を見つめるのは、護衛の指揮官、伴尚啓。
皇子の嘉笙の幼少期から守りをしている。文武に秀で、果敢にして沈着な人柄で秋津国一の偉丈夫とも謳われる彼が、嘉笙皇子について海を渡る事になったのは、守り役だからだけではない。
当世に隆盛を誇る播部氏から伴一族が疎まれていることにも一因がある。本来なら近衛大将にもなれよう技量がありながら、皇位継承権の無い皇子の守り役に任ぜられたこと自体が、伴一族へのいわば嫌がらせのようなものだ。
白桃の頬を紅潮させ、楽しげに葦毛に跨がる少年に目を細める。
ーー俺は良いーー
元より朝廷の要職を悉く我が物にせんとする播部氏に武辺一辺倒の伴一族が敵うはずもない。だが......
ーー皇子さまには、心ない仕打ちはさせぬーー
才気もある。心映えも良い。尚啓が大切に護ってきた皇子は賢く優しい。
ーー大陸でなお見聞を広め、見識を深めれば、播部とて一目置かざるを得まいーー
「着きましたぞ」
嘉笙と尚啓の期待と夢を託した華陽の都の門がゆっくりと重い音をたてて開いた。
その内に渦巻くものを彼らはまだ知らない。
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