想い出の701号室

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想い出の701号室

 このホテルに来たのは何年ぶりだろう。二度と来ることはないと思っていたんだが…、 やけに西陽が強い。海からの風なのか、そんなわけはない。都会の真ん中からの風なのだ。この異常な乾いた風。なぜか胸騒ぎがする。 「景山君、君が宿泊する部屋は7階。部屋番号は706号室。はい、これが部屋のキィー。いいですね、16時までに3階のシルクルームに集合すること。講師のバンデミン氏をお迎えする準備、よろしく...」 「確認させてください。バンデミン氏には通訳の方も同伴ということで宜しいでしょうか?」 「もちろん同伴です。景山君、そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。僕も最初は緊張しましたが直に慣れました。この会社、毎日が接待づくめです。習うより慣れるですよ。はっはっはっは」 「了解しました」  不思議なものだ。転職先のセミナー会場が紗香と泊まったホテルと同じだとは。しかも、泊まる部屋こそ違え、同じ7階とは。 「諒太、この港の風景だけど、クリスマスイブには周囲のビルは夜通し全照明になるんですって。想像してみて、どんなロマンテックな風景になるのか。クリスマスイブにも一緒にこのホテルに来たいわ」  外国船が港を行き交っている。この玄関ホールから眺める港の風景はあのときと同じだ。あのときも今頃の時間帯だった。いや、黄昏が近かった。彼女は嬉しそうに僕に寄りすがり、呟いていた。 「黄昏が待ち遠しいわ。あなたと黄昏に包まれた港の風景を眺めてみたい。あの豪華客船を見て、港を出て行く船は(わだかま)りの過去を何も無かったかのように置き去りにして行くのね。わたし達も同じなのだわ。わたし、今、考えているの、あなたとの結婚。そのときは、式は、このホテルにしたいわ」  確か、紗香と泊った部屋は701号室だった。べランタ横のカウンター付き出窓の下には、色とりどりの夥しい数の造花の薔薇が、まるでポール・セザンヌの絵にあるような青い花瓶に華麗に(しつら)えられていた。淡いブラウンの絨毯の上で、それらの花々は色彩の輝きを恥じらっているように見えた。部屋の真ん中にはリモージュ風のテーブルがあった。それにはローゼンタールの白磁のコーヒーポットとカップ、それにプラリネのショコラが数個盛られた皿が載せてあった。彼女は心持ち気取った様子でプチポアン刺繍のアームチェアに座り、凛とした眼差しでショコラを一粒頬張ったんだ。僕は憶えている。西陽がカーテン越しに差し込んでいたのを。眩しくって堪らなかった。 「諒太、なぜ黙っているの?」  僕は彼女に言えなかったんだ。他の女性と天秤に掛けていたのを。目の前に存在する贋物とも本物とも区別のつかない分不相応な調度品の光景が本物の放つ皮肉めいた荘厳さだと思い知らさられたのを思い出す。あのとき、僕は自分が場違いな見世物になっているような錯覚に陥った。彼女の純粋な瞳に、自己卑下にも似た気分になり、どうしょうもない煩悶に囚われていた。僕は「みんな贋物であって欲しい」と彼女に言いたかった。  706号室....、僕はドアを開ける。この部屋は単なるシングルルーム。過ぎ去った時間が空白という名の色彩でこの部屋の静寂を装っている。窓の向こうに広がる港の風景だけが701号室の想い出を(いざな)っている。もうどうにもならない想い出を。  間もなくこの部屋にもあのときと同じ黄昏が訪れるのだろうか。紗香と沈黙の時間を()みしめた黄昏。言い出しかねた数々の思いの言葉を諦めさせた黄昏。いや、それは過去のことだ。今は16時までに3階のシルクルームに行かなくてはならない。講演が終わると参加者はワーキングチーム毎に分かれて業務改善のディスカッションを行う。僕は人事チームのファシリエイターを担うことになっている。時間制限なしで。でも、それが終わると、最上階ラウンジでチーム毎の懇親パーティーが待っている。明日は各チームの成果発表会。それも僕が人事チームを代表して行うことになっている。  黄昏よ、この現実に、せめてもの、あのときの西陽を届けて欲しい。その時は、僕はこの部屋には居ないけど。二人見つめていたのは、確かに、黄昏に包まれたこの港の風景だったのだから…。
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