事の始まり

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事の始まり

 銀座の夕暮、乾いた風が夢になった。時おり掠める爽やかな青い風の翼に、まるで奇跡にでも(おのの)くように僕は震えた。それは想定外の転職先が決まったからなのだと思った。英語が社内の公用語、多国籍社員の会社、社内の情景を想像するだけでも震えが沸いてくる。この転職先は僕にとっては確かに奇跡に違いなかった。  暑さにも疲れて僕は、ブルガリイルバーで綾瀬玲子の到着を待った。暫くすると、彼女が遣って来た。一人ではなかった。連れは中年の男だった。男はだらけた感じのグレイのポロシャツにだぶついた紺のジーパンをはいていた。彼女自身は、はだけた濃色のカーディガンに透けた感じの繊細な花柄のレーススカートをはいていたので、この二人の光景があまりにも奇異に思えてならなかった。男の足取りは、無礼なほどの蟹股(がにまた)歩きで、周囲に向けて侮蔑感すら放っているように見えた。 「諒太さん、お待たせ。この人、私の父です。ここに来る途中ばったり出会っちゃて、いい機会だから、涼太さんに紹介しょうと思ったの」    僕は戸惑った。どう口火を切ってよいのか皆目わからなかった。 「君ですか、玲子のボーイフレンドは…」 「影山諒太と申し上げます。お父様ですか。お会い出来まして嬉しいです」 「なかなかのイケメンだね。安心した」  おなざりの言葉しか言えなかったが、あの目つきは僕を見下していのは確かだった。僕の頭の天辺から靴先までなでるように眺めて、僕ではなく玲子の顔を見つめながら(だる)そうに喋ったのだ。 「急いでいますので、まずはこれにて。玲子、これで二人でディナーでも楽しみなさい」 「あら、いいの?じゃ、遠慮なく頂くわ」 「景山さん、今度あらためて私の家にお出でください。これからのことを話し合いましょうや。じゃ、これにて」  なんということだろう。不躾な振る舞いをする人間とはこのような人なんだろうと思った。素っ気なく、しかも名乗ることもせず去っていくとは。
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