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僥倖
「たまにはワインでも飲まない?」
そう言い放った彼女は、2015年ものの赤ワイン、シャトー・マルゴーを手にした。ワインに疎い僕も、名前くらいは聞いたことがある。
「開けてくれないかしら」
凛として、それでいて甘美なまでの旋律を奏でるような声で囁くのは、僕の妻だ。結婚して五年程経つが、まだ子どもはいない。僕が動物アレルギーのため、ペットも飼っていない。
何一つ自分に価値を見出だせない僕とは、釣り合うはずもなかったのだが、彼女の方からアプローチしてきた。
こんな僕でも一緒にいてくれる人が、しかもハイレベルなまでのスペックをもっている彼女が、僕に寄り添ってくれていることに、一種の優越感と安らぎを感じていた。
そして、この平々凡々な僕のささやかな生活の中に幸せをもたらしてくれたことを、感謝すらしていた。
僕は言われるがまま、徐にボトルとソムリエナイフを手にし、不器用にコルクの詮を抜いた。
「たまには一緒に飲んでみたくて、買っておいたのよ」
彼女の動向を見守りながら、そちらは振り返らずに、じっとその場を離れずにいた。
僕はお酒は弱い。というより、ほぼ飲めない。彼女は人並みに飲む程度だが、こんな高級ワインを飲むことは滅多になかった。なぜ急にそんなことを言い出したのか、少々違和を感じていた。
「こんな風にあなたと飲むなんて、結婚初日以来よね」
流れるような手つきで、グラスに半分注がれたワインを二つ手にし、その一方を僕の前へと差し出した。
「乾杯しましょ」
何に対してだ? と思いながらも、僕はその理由を聞き出せないでいた。聞いてしまったら、何もかもが一瞬で壊れてしまうような気がしたからだ。この日常を少しでも長く続けていたい。そう毎日を過ごしていた。
この幸せすぎる時間がいつまで続くのか、結婚してからの五年間、その不安からは一日も逃れることは出来なかった。
そして、これが最後の晩餐になろうとは思いもよらなかった。
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