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早めに会議を切り上げると、伸也は地下鉄赤塚駅から地上に上がり、光が丘公園に向かった。午後2時、人通りは多い。その道中でぽつんと佇む黒塗りのカフェが目に入る。反対側に建つコンビニで見慣れた男の姿があった。 「おお、章吾。外回りか。」 「俺は刑事だぞ。営業とか無いの。」 生島は緑色のベンチに座ってタバコを燻らせていた。隣に腰掛けて日差しを浴びる。伸也は思い切って口を開いた。 「なぁ、少し話があるんだけど。」 薄い紫煙を吐いて生島はこちらを見た。ぱっちりとした目に高い鼻筋、彼は高校時代から顔立ちが整っていた。 「家の塀に落書きって、どんな犯罪になるんだ。」 「建造物損壊罪、じゃねぇか。軽犯罪法違反かな。落書きといっても掃除すれば簡単に消すことができるなら後者に該当する。軽犯罪法第33条。みだりに他人の家屋その他の工作物を汚した者は1万円以下の罰金、30日未満の拘留だな。なんだ、落書きされたのか。」 こちらを見て生島は言った。伸也は背を預けて水色の空を見上げた。こんな時でも春の陽気は暖かい。 「まぁそうだな。」 隣に立つ銀色の灰皿に灰を叩き落とし、生島も背を預ける。 「心当たりはあるのか。」 「一応あるんだけど、確証はないんだ。だからどうしたものかと。」 そうか、と言って吸い殻を灰皿に投げ入れる。鼻から煙を抜いて生島は言った。 「目星のつけた家に落書きをして、住民がいない日を見計らって忍び込むという空き巣犯罪のケースは多い。昼間は一葉さんがいるとは思うけど、それでも女性1人だからな。俺からもパトロール強化してもらうよう、山さんに掛け合ってみるよ。」 ありがとう、と礼を言って伸也はベンチから立ち上がって光が丘公園に向かった。春の暖かさにじっとりとした汗をかきながら横断歩道を渡る。濃い葉のアーチをくぐって大きな公園内に入った。 広々とした通り道にはスケートボードに乗った高校生、犬を連れた主婦や低い自転車に乗った小学生、手を繋ぐカップルで溢れている。今は花見目的で訪れる人も多いが、おそらくこの公園は特に見所のある花が咲いていなくとも楽しめる場所だと感じた。それは遠くから聞こえるサックスの音がそう教えてくれている。楽器の練習なのだろうか、細い木々の真ん中にある木のベンチにケースを置いて、自由自在に音色を奏でている。 並んで生える木々に沿って置かれた白いベンチ、1人の老婆が腰掛けていた。よれた紫色のカットソーにグレーのパンツ、禿げ上がった白髪をこちらに見せて俯いている。気に留めることなく通り過ぎようとした時、掠れた声が聞こえた。 「加藤さん…林さん、鈴本さん……。」 ふと老婆を見た。彼女は誰かの名字を口にしながら、前後に揺れていた。 謝っているように見えた。 「…鈴本さん…加藤さん……林さん…。」 その時に伸也は、彼女が稲田チエだと納得した。一葉が言っていた特徴に似ている。しかしこの揺れは何だろうか。これも認知症の症状なのだろうか。小沼江美が言っていたBPSDという言葉を思い出す。 「林さん……鈴本さん…加藤さん…。」 稲田チエは3人に謝っているということなのだろうか。おそらくこれも認知症によるものなのかもしれない。伸也は思い切って稲田チエの目の前にしゃがみこんだ。 「稲田さん。僕、隣に越してきた青木伸也です。」 「あお、き。」 覚えたての言葉、そんな印象だった。青木という言葉を新しくコンピューターにインストールするかのように稲田チエは呟く。 「その、林さんと…えっと、鈴本さん?あとは加藤さんか。それは誰なんですか?」 稲田チエは何も答えなかった。口を一文字に結んだまま、前後に揺れている。伸也は小沼家での夕食を思い出していた。彼女が安心できる環境、それは部外者の自分が作り出せるものなのだろうか。 「何かあったら、いつでも言ってくださいね。ご近所さんなんですから。」 「……加藤さん……林さん…鈴本さん……。」 再びそう呟きながら、稲田チエは前後に揺れて、誰かに謝り始めた。 光が丘公園の出入り口から長く伸びる一本道を歩き、伸也は考えていた。自分たちのような部外者が稲田家の問題に首を突っ込んでいいのかという、小沼江美の言葉が引っ掛かっていたのだった。 伸也の祖父母は既に亡くなっている。事故に肝臓の病、認知症などとは無縁の人生を送ってきた。だからこそ向き合い方が分からなかった。自分と一葉の両親であればきちんと真正面から向き合わなければいけないのだろう、しかしあくまでも稲田家は他人である。あくまでも遠巻きで見守ることしかできないのかもしれない。そんなことを考えながら伸也はいつの間にか歩き慣れた道に入った。 「あら、伸也さん。おかえりなさい。」 道の先、江美がベージュのエコバッグを片手に提げて声をかけてきた。 「ただいまです。あの、少しいいですか。」 「うん、どうしたの?」 「実は今さっき、稲田チエさんと会ったんですけど。どこかこう…揺れて、いたんですよ。」 畑を囲む水色のフェンスの前に立ち、伸也は言った。 「揺れていた…なるほど。おそらくだけど、パーキンソン病の症状もあるかもしれないわ。」 聞いたことはある言葉だった。 「それって認知症と関係があるんですか。」 「ええ。どの病も脳の神経細胞が破壊されることで発症するの。現にパーキンソン病患者の3割が認知症なの。パーキンソン病から認知症を発症するケースをPDDというんだけど、ひどい人はうつ状態にもなるわ。」 なるほど、と伸也は唸った。総合して考えると稲田チエの状態は非常に悪いのかもしれない。すると江美は眉をひそめながら言った。 「他に何か症状はあったりする?」 数十分前の出来事を思い出す。彼女は誰かの名前を呟いていた。 「誰かは分かりませんけど、人の名前を言っていましたね。林、加藤、鈴本…と言ってましたね。」 「そうね、やっぱり認知症で間違いなさそうね…。」 そう言って江美はエコバッグの持ち手をぎゅっと強く握った。看護師から見るとやはり心配になってしまうのだろう。伸也は力無く言った。 「どうケアしてあげたらいいんでしょうか…。」 「分からないわ。ただ今は、優しく見守ってあげることしかできないのかもしれない。」 江美の言葉が妙に悲しく、切なく聞こえた。
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