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靴どうしたの?
膨らみ始めた桜のつぼみに春まだきの風が吹きつける夕暮れどき。
一日の勤労の終わりにほっと息を吐き、蝉しぐれを浴びたひとたちが帰路につく夕間暮れ。
あるいは山を下りてきたアキアカネが舞い飛ぶ黄昏どき。夕陽を背に、あるときは頬に夕陽を浴びながら彼女は現れる。
初めて僕の前に姿を現したのは、小学校の三年生のときだった。思えばずいぶんと長いつき合いになる。
冷たい秋風が髪をなぶり、家に帰れない僕は途方にくれて、いまにも泣き出しそうだった。なぜなら僕は解決策を持たなかったから。
たくさんの言い訳を考えた。たくさんの嘘を捏造しようとした。けれど足元の現実はそのすべてを拒否した。
学校帰りに僕が座っていたのは河川敷にある木製のベンチだった。
「何してるの」ふわりと横から声をかけてきたのが彼女だった。
ピンクのランドセルの肩ベルトに両手の親指を突っ込んだ彼女は、明らかに僕よりお姉さんだった。
それからちょっと腰をかがめて首を傾げた。唇からのぞく大きな前歯と少し垂れた眉や目元と相まって、その微笑みはなにもかもを包み込んでしまうようなやわらかさだった。
「いや……別に何って……」
人見知りな僕の戸惑いを笑うように、風が彼女のおかっぱの髪を揺らした。
ランドセルを背中からおろして隣に座った彼女は、僕の言葉など聞こえなかったかのように、ほら、と赤みを増しつつある空を指差した。
「秋の空ってさ、なんで高いか知ってる?」
「空が高い?」
「知らないの?」なんてことなの、とでも言いたげに、彼女は自分の太ももをパシパシと叩いた。
「じゃあ、天高く馬肥ゆる秋って言葉も知らないね」
「知らない」
「もっと大きくなったら教えてあげる」じっと見つめた彼女の横顔。長いまつげが夕焼けに染まった空を影絵のように切り取っていた。
「靴、片方どうしたの?」僕を見ないまま彼女は言った。
「どうもしない」僕は隠すように足をひっこめた。
「そんなわけないでしょ。盗まれちゃったの?」
僕は不承不承こくりと頷いた。靴を片方だけを盗まれるわけはないのだけれど、彼女はそれ以上追求してはこなかった。
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