8人が本棚に入れています
本棚に追加
プロローグ:魔王と縁
それを切れば、世界は終わる。
この地球は一本の糸で縫い上げられた脆い存在。魔王は事実を知り、その生命線を見つめているようでした。
湖の水面はゆっくりと沈む夕焼けを映し出し、風で微かに揺れます。その様子はシルクのドレスのように繊細な動きでした。
魔王は鼻から息を吸って、そして口から長く吐き出しました。サングラスで表情は読めませんが、まるで決意したかのように光沢のないコートの襟を正します。すると、そんな決意を邪魔するようなエンジン音が聞こえてきます。
それは停まっている車を避けるために中央線の上を走っていましたが、律儀にも法定速度を守って近付いてきます。
世界は今、時が止まっていました。動けるのは魔王と彼の協力者と能力に干渉されなかった数人だけ。交通マナーを破っても、罰する者はいないのです。
その人物はバイクに乗って近付いてきて、荷台には郵便マークが記された箱を積んでいます。迫る車がいないのにハザードランプを着け、道路沿いにバイクを停めて降りると、男は近付いてきます。
波の音と風の音、そしてハザードランプのカチカチという音。その三つの音が、今の彼らの世界でした。
「鶴城十束さんですか?」
配達員は一礼し、大きめな封筒を魔王に手渡します。
「……私に?」
魔王の表情に変化はありませんでしたが、動揺しているようです。目の前の配達員が今ここで動いていることが、不思議でたまらないのでしょう。
「はい。お届けものです」
配達員は硬い表情の魔王とは対照的に柔らかい笑みを浮かべます。自分より大柄な男を前にしても、その笑みは崩れませんでしたが、次第に困ったような表情に変化します。魔王が封筒を受け取ろうとしないのです。
「アンタが受け取ってくれんと、次の配達に行けんわ」
封筒には大きく、それでいてなんとか綺麗に書こうとぎこちない文字で魔王の本名が書いてありました。魔王は問います。
「何故、私にこれを?」
「仕事が溜まってるので、今のうちに終わらせようと思いまして」
目の前にいる男のせいで、家族や大切な人の時が止まっているかもしれないのに。そんな状況で、配達員は黙々と仕事をこなしているようです。
「気付いたら手紙が届いとるって、ロマンチックでしょ」
いや、ホラーですかね? 笑う配達員に、男は間髪入れずに告げました。
「この世界は私が今から壊す。きみはそれを止めることが出来るはずだ」
「あんたに勝てる選手なんて、どこにもおらんと思いますよ」
自分を責めるように、配達員は笑いました。
「おれも裁縫技をしちょった人間だけん、あんたの恐ろしさくらい分かります」
魔王は観念したのでしょうか。右手を差し出し、封筒に触れました。
「差出人は」
「あ、受け取ってくれますか? 良かった。えっと、差出人は確か」
封筒を裏返して差出人の名を見ると、魔王は呆気に取られたかのように口を開きました。
「糸賀縁さんから、お手紙です」
最初のコメントを投稿しよう!