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第2話:エメ・コレット
一
縫戦祭の交通費や宿泊代は、国や祭典のスポンサーなどが負担してくれるため、参加選手は安心して好きな移動手段を選ぶことができます。そんな中、縁が選んだのはスタンダードなものでした。
イギリスから列車に乗り、海峡トンネルを通ってフランスへ。無事に席に座ると、縁はツナグに尋ねます。
「ツナグさん、フランスまでどれくらいで着くん?」
「う〜ん。二時間くらいかなあ」
「えっ。島根と鳥取より掛からんがん!!」
「山陰は二時間も掛からないでしょ〜」
「山陰と一緒にされたヨーロッパ……」
山陰というのは、主に島根県や鳥取県のことを指す名称です。ちなみに島根県は左側で鳥取県は右側です。
「二人とも、フランスは初めて?」
ツナグが聞くと、風景を楽しんでいる縁と帽子を脱ぎながら山陰とヨーロッパについて考えていた結は口を揃えて「はじめて」と答えます。
「よしよし。予習がてら作ってみましたよ、っと」
ツナグがキャンバス地のトートバッグから出したのは、小さなホワイトボード。それにフェルトで作った人形やモニュメントなどをくっつけます。
「すっげー! ツナグさんが作ったの?」
「ありがとう〜。練習がてらにね。え〜っと」
縁と、そして結もホワイトボードに釘付けになります。ツナグは塔と美術館を模ったマスコットを指さします。
「フランスは大きな美術館や歴史的な建造物が素敵な国。イギリスやドイツと並んで裁縫技が強い国でもあるね」
ツナグが選手の人形を動かしていると、結は通知音に気付いてカバンの中のスマートフォンを取り出します。
「あっ」
「結ちゃんどげした?」
「次の対戦相手、決まった」
結が画面を見せると、そこには縁たちのチーム名と、最初の対戦相手が記されていました。対戦相手の名前は"Un seul Rose"。
「う、うん?」
縁は首を傾げました。どうやらチーム名が読めないようです。
縫戦祭の期間である十月〜十一月までは、全世界の言語が統一されます。縁たち日本人は全ての言語が日本語に変換されますが、チーム名にはそれが適用されないみたいです。
「うん、せ……」
「ろーず、はなんとなく分かるんだけど……」
縁と結が悩んで諦めてから数分後。目的地に着いたようです。
下車してキョロキョロと辺りを見回す縁に「迷子にならないでよ」と結の忠告が飛びます。縁は少し凹みながら強がって、
「大丈夫!! 迷子にはならん!!」
と、胸を張っていたのですが……。
「迷子〜〜っ」
『迷子だねえ』
涙声の縁に、電話越しのツナグは優しく返します。
「だって、トイレどこにもない……」
フランスは公衆トイレが少なく、探し回った縁は目に入ったカフェに入り、そのままオレンジジュースを注文してトイレに駆け込みました。
『トイレ行きたかったら言ってよ〜』
「ごめんなさい……」
『今どこにいるの?』
「なんか、真っ赤な屋根のオシャレなカフェ」
『じゃあ店員さんに迷子です、って言って、住所のQRコードもらって送ってね。そしたら迎えに行けるから』
「うん……」
縁は指示通り「迷子です!!」と泣きつくと、店員はQRコードがついた紙を出してくれました。慣れない手つきで写真を取って送信します。縫戦祭は子供も参加できるので、迷子対策のために飲食店などが協力してくれる場合があるのです。
テラス席に案内された縁はやや不安そうな表情を浮かべていましたが、オレンジジュースを飲むと、吹き飛んでしまったように笑顔になりました。
ジュースを飲みながら上機嫌の縁でしたが、結のことを思い出したのでしょう、「結ちゃんに叱られる……」と顔を真っ青にして呟きました。
気を紛らわすためか、目の前の風景を見始めました。日本とは違ったファッション、歴史を感じさせる洋風な壁、アンティーク調な窓。
「あ!」
カフェの前を歩いていた一人の少女が驚いた顔をして、店に入ってきました。深い髪のロングヘアーに黒いリボンの少女は、縁が座っている席に近付いてきます。
「ここ、空いちょう?」
「あ、はい。空いちょります」
「ありがとう! あ、オレンジジュースお願いします!」
少女は座ると、大きな瞳でジーーッと穴でも開けるのかという雰囲気で縁を見つめ始めました。縁は恐る恐る尋ねます。
「あの……オレに何か用ですか?」
「糸賀縁選手ですか?」
自分の名前を呼ばれて驚いた縁でしたが、少女は両手を差し出してきたので考える暇もありません。
「わ〜! 本物だ! 握手握手!!」
少女は両の手で縁の右手を包み込みます。離す気配がないので、縁はそのまま問います。
「なんで、オレの名前を?」
「動画で見たけん」
「動画?」
「うん! すぐ消されたけどね、インターネット上では大騒ぎだよ〜。"ジュニアランキング一位の梅月シエル、無名の選手に敗れる!! これが縫戦祭だ!!"、って」
見出しを強調して言われ、縁の顔は再び真っ青に染まります。
「大丈夫だよ! すぐ消されちゃったし、アップした人は警察に特定されて厳重注意だって! 怖い時代ね〜」
「ううう」
怖がる縁に、少女は「大丈夫だよ」と励まします。彼女は縁から視線を離さず、見ていて飽きないのかずっと見続けています。
「あの、手を離してもらえると……」
「あっ。ごめんなさい」
少女は手を離して、改めて自己紹介をしました。
「私は吉月詩子! 縫戦祭の出場選手!」
「……母ちゃんと同じ名前じゃん」
「イエーイ同姓同名!!」
詩子は置かれたジュースをごくごくと飲み干し、そしてニコニコしながら縁に質問を投げかけます。
「ねえ。縁はどんなお裁縫をするの? それともお直し?」
「え、と。色々、する。基本のぞうきんやボタン付けもするし、学校で習ったエプロンとかナップサックとか……」
縁はテーブル下に置いていたナップサックを取り出し、詩子に見せます。黒いキルティング生地には黄金の王冠と丸をモチーフにしたロゴマークが中心に鎮座していました。
「あ!! 私も学校で作ったよ〜! 縁はキングテーブルのにしたんだ」
「それ以外だったら、その……」
切れない布に苦戦するハサミのように歯切れが悪くなった縁に、詩子は別の角度から質問を切り込みます。
「糸賀選手! ずばり、先日の試合の勝因は?」
マイクを持つような真似をした手を出すと、見えないそれを突きつけられた縁はう〜ん……と悩み始めます。縁は先ほどから、はす向かいの店に入ったり出たりして悩んでいるスーツの青年を目で追いかけながら、答えました。
「オレがシエルくんに勝てたのは、奇跡だったんだわ」
縁なりに言葉を選んだのでしょう。それとも本音でしょうか?
「ダメだよ」
詩子は先ほどとは違う、静かな雰囲気でピシャリと言い放ちます。
「勝利を奇跡なんて言ったらダメだよ。相手にも失礼だ。次そんなこと言ったら、本気で怒るけんね」
「ご、ごめん」
詩子はそれ以上何も言いませんでしたが、眉を下げ、縁を心配している様子でした。縁は口を何度かもごもごさせて、そしてようやく口にします。
「きみには、オレがどうして勝ったように見えた? オレ、」
縁はその続きを言いませんでした。いや、言えませんでした。また怒られると思ったのでしょうか? ですが、詩子の視線は初めて縁から外れていました。
「あの人」
彼女が指さす方向には、縁が目で追っていたスーツの青年。縁たちのいるカフェに入店すると、そのままテラス席にやってきました。手にはショッパーなど購入した物はなく、シンプルで上品な雰囲気のクラッチバックだけ。
青年は縁たちの座っているテーブルの前でピタリと止まります。詩子は先ほどから青年を怪しんでいるようで、睨みつけていました。
「そこの二重ネクタイの少年と触覚みたいなリボンのお嬢さん、ここ空いてるかい?」
詩子はますます怪しんで縁を守るように手を前に出しますが、縁は「オレはいいですよ」とOKを出します。
「詩子は大丈夫?」
「え、でも」
「詩子もこんな感じで来たよ」
痛いところを突かれ、詩子は椅子を引いて「どうぞ……」と隣に座るよう促します。青年は礼を言いながら着席しました。
「コーヒーを頼むよ」
自分の飲み物を注文すると、青年は手を差し伸べます。縁よりは大きいけど、十束よりは小さい手。
「ぼくの名前はエメ・コレット」
「糸賀縁です」
青年……エメと縁が握手を交わすと、エメは同じように詩子と握手をします。
「突然すまないね。怪しい者じゃないから安心してくれ」
次は胸ポケットから小さなケースを取り出すと、そこから長い指先ですっ、と名刺を取り出します。慣れていて優雅な手付きです。
「おっと、ぼくとしたことが。一枚しかないなんて」
たった一枚の証明を見て、詩子は首を振って縁に目線を向けます。それに従うまま、エメは名刺を縁に渡します。
「ぼくはこういうものです」
「えと。頂戴します」
縁は会釈をしながら、両手で名刺を受け取りました。その動きはぎこちないですが、ちゃんと受け取ろうとする誠意が現れていました。
「へえ。キミは若いのに名刺の受け取り方が分かるんだね!」
「父ちゃ……父がいつも、こうしてて」
縁は詩子の目の前に名刺をかざし、二人は日本語に変換されているであろうフランス語を読みます。
"テーラードショップ ヒッポグリフ テーラー・デザイナー
エメ・コレット"
シンプルですが上品さを感じる書体と、羽根がモチーフのロゴマークが記された名刺には、彼が務める会社名と役職、名前が記載されていました。
「お兄さん、スーツを作る人ですか?」
詩子が質問をすると、エメは「そうだよ」と返します。注文したコーヒーが届くと、エメはそのままコーヒーを飲み始めます。冷まさない様子と砂糖やミルクを入れない彼に"大人"を感じたのか、縁は「へえ……」と感嘆の声をぽそり。
「さて。ぼくの素性は分かったと思うので改めて。エメ・コレット。生まれも育ちもフランスのテーサーさ。よろしく!」
エメはバッグからあるものを取り出します。先ほどの名刺くらいの大きさの厚紙に、二種類の布が貼られていました。
「これ、さっきそこの店でもらったサンプルなんだ」
エメは指で布をなぞりながら、深いため息を吐き出します。
「新しいシャツを作りたいんだけど、どうしても生地が決まらなくて。そこで、キミに選んで欲しくて」
視線を向けられ、縁は驚いているのでしょう、目をぱちくりとまばたきさせていました。
「だまし絵のデザインの服を贅沢に着ている感性のキミに、ご教授を願いたくてね」
縁はネクタイがプリントされたカーディガンとTシャツを伸ばすと、少しだけ照れた表情を浮かべていました。褒められたのが嬉しいようです。
「キミのファッション、恐れを知らないライオンみたいで独特だね」
「ありがとうございます、えへへ……それって、誰かへの贈り物ですか?」
機嫌がいい縁がニコニコしながら聞くと、エメはしれっと「自分用だよ」と答えました。
「ご褒美か何かですか?」
「違うかな。ただ、ぼくに似合いそうだなって思って」
「は、はあ」
「こっちの豪華そうな布と、こっちの素朴そうな布。どちらもぼくの手で作られて、ぼくに着て欲しがってると思わない?」
縁は頭を抱えました。そんな縁をよそに、エメは今度は詩子の服装を褒めていました。詩子がムッと頬を膨らませたのが分かり、それに気付いた縁は現実に戻ってエメの相談に乗ろうとサンプルの生地を見ます。
青い布に金のドット柄が入ったものと、白に薄い銀のラインが入ったものを見比べると、縁は先ほどエメが入っていたはす向かいの店に指をさします。
「オレはあっちの方がいいなあ。オレンジの」
「オレンジ?」
その指の先には、オレンジ色の派手派手しい生地が飾られていました。
「……エメさん、あっちの方がいいよ」
「へえ。それはなぜ?」
「似合う、似合わないとか、そういうのじゃなくて。最初はオレンジの布を見ちょったでしょ? でも諦めてこの二つにしたから、本当はあっちが良かったんじゃないかなって」
縁の視界には、第一候補を諦めるエメの姿が映っていたようです。言い終わると、エメは笑顔でお礼を言います。
「ありがとう! キミに聞いて良かったよ。あっちの生地で作ることにするよ」
エメが感謝の握手を求めると、縁はそれに応じます。
「縁、良かったね」
二人のやりとりを見守っていた詩子の言葉で、縁はようやくホッとしたようです。
「お礼に、いいことを教えてあげよう」
エメは手を離すと、こほんと咳払いをします。
「ぼくは中堅で出るよ」
中堅とは、剣道などで三人制の試合の順番で使われる言葉ですが、裁縫技でもその単語が使われています。
「ぼくのチーム名はUn seul Rose。キミたちの対戦相手さ」
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