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第一章 ライターの秘密 2
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ベンさんの店から麦田町までは自転車ですぐだ。スナック『アムール』も俺の記憶が確かならそう遠くはない。だいたいのアタリをつけて行ってみる。
ビンゴ!その店はすぐに見つかった。
俺は自転車を店のすぐ側に置き、店の前に立つ。そうだ、スナックは夜からだった。しまった……まだ早かったか。
俺が中が見えない扉の前でうーんと唸っていると、後ろから声がした。
「……ウチの店に何か用?」
振り返るとVネックの赤いシャツにベージュのパンツで、無造作に髪を括った年配の女性が立っていた。持っていたエコバッグからはネギが顔を覗かせていた。
「えっと……」
「まだ開けるには早いんだけど」
「ここの……ママさん?」
女性は軽く頷いて鍵を開けると、どうぞと言った。俺はお邪魔します…と小声で言うと店の中に入って行った。
店内は何処にでもあるスナックのような広さで、カウンターの席よりもボックス席のほうが多かった。恐らく団体でくる客が多いのだろう。地元密着といったところか。
「ちょっと待ってね、冷蔵庫入れちゃうから」
ママさんが大きな声で言った。
「あ、すいません。全然待ちます」
俺はボックス席の小さい丸椅子に座ると、店内を見回した。
綺麗にはしているが年季の入った壁紙。並んでる酒類からこの店のだいたいの予算を計算する。ウィスキーは角がメインでオールドパーがちらほら。焼酎は吉四六がメイン。スナックの中では安いほうではないらしい。ただこの辺の住宅街なら、このくらいは難なく払えるだろう。繁華街にも遠くはないが、タクシー代や面倒くささを考えたら、この店を選ぶに違いない。
「お待たせ!」
ママさんがカウンターの中から出てくる。ついでに俺の前には烏龍茶が置かれた。俺はいただきますと呟くと、口をつけた。
ママさんはカウンターまで戻り、自分用の灰皿を持って俺の向かいの丸椅子に座った。
「で、何の用?店にお客様として来たようには見えないけど」
そう言ってスワロフスキーで美しく彩られた煙草ケースから細い煙草を取り出し火を点けた。フーと気持ちよさそうに吐き出した。
「昨晩きたBenさんとこの爺さん、ライター忘れてきたっていうから取りに来たんだけど」
「ライター?」
ママさんはうーんと唸った。
「ここに?忘れたって?」
「ええ、まあ」
ママさんは吸い始めたばかりの煙草を灰皿に押し付け、カウンターの中へ戻って行った。何やらカウンター下で探していた。
「アレでしょ?アメジストの嵌ったZIPPO」
「そう、そうです」
「……ないわよ」
「え?」
「昨晩の忘れ物ってライターは100円ライターしかないわよ」
「マジっすか……」
爺さん、帰る途中に落としたのかよ!?こっから爺さん家まで這いつくばって探すしかねえか……。
「蓮見さんここでライター落としたって?」
「ここで落としたってやたら自信ありげに言ってたんで、ここかと思ったんすよね。すいません」
「うーん。それは間違ってないと思うわよ。だってここから家までいつも決まったタクシーで帰るから。あ、待って。乗ったタクシーに電話してあげる」
ママさんはそう言うと、これまたスワロフスキーで派手に飾ったスマホで連絡し始めた。
え?爺さん、家までタクシーかよ!ワンメーターじゃねえか。豪勢だ。あー、でも暗い道歩いて転んだらもっと高くつくか……。
そんなどうでもいいことを考えていたら、どうやら電話は終わっていたらしい。
「落としてないらしいわよ。蓮見さんいつも決まった個人タクシー頼むし、降りた後も玄関先まで送っていくみたいだから」
「マジっすか!」
なんじゃそりゃ。爺さん、甘え過ぎだろ!
ママさんは俺のそんな気持ちを見越したようにふふと笑った。
「蓮見さん、いいお客様だからね。週3回、もう10年以上同じタクシーを頼んでるの。たぶん余計に払ってると思うし」
「そりゃ、いいお客さんっすね……。ここに来た時はそのライター持ってました?」
「ええ。ずっと使ってたわよ。アレ、もの凄く大切にしてたでしょ?もしここにくる前に無くしてたらそりゃ大騒ぎよ。……持って帰ったと思ってたんだけど」
ママさんもうーんと首を捻る。爺さん、まさか家の中で無くしたんじゃねえだろうな。
ここに無いなら仕方ねえ。爺さんの家に戻るか。俺が席を立ちかけた時、ママさんはあっと声をあげた。
「いつもの女の子が急にインフルエンザに罹ちゃって、派遣の人をお願いしたのよね。もしかしたらその人が持ってるのかも」
「派遣?」
「そうホステスの派遣ね」
へー。今はそんなのもあるんだな。ってか何でもありじゃん。
「連絡してもらえませんか?」
「困ったな。連絡先は聞いてないのよ。基本的に派遣会社との契約だから」
そうか。まあ、そうだよな。
「じゃあ、その派遣会社を教えて貰えませんか?」
ママさんはスマホケースから名刺を一枚取り出した。俺は一礼するとスマホを取り出して名刺を撮らせてもらった。
「すいません。まだ営業時間じゃないのに来ちゃって。烏龍茶、ごちそうさまっした」
「いえ、それはいいんだけど。派遣会社に連絡するの?」
「あー。たぶん電話だと怪しまれるんで、直接行ってみます」
「そ、そう。でもそこりゅ……」
「りゅ?」
「いえ。まあ、事情を話せば電話くらいしてくれるわよね、うん」
ママさんは言葉を濁した。俺は再び礼を言い、店を後にした。
その事務所は横浜駅の西口にあった。時間だけはある。自転車で行くか。
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